例えば、表現規制が、過酷な環境にある私達の物語を正確に描画することを阻む。 だから、物語は過剰な戦闘だとかあり得ない異世界だとかに逃げてしまう。 それらは満足できる興奮を与えてくれるけれど、それらと同様に物語になれるだろう過酷な私達のリアルを描いてくれない。 だから、私達は物語を次から次へと漁り続ける。 過酷な環境にある私達のリアルを描画し、あわよくばそれを幸せに導く物語を求め、漁り続ける。 だから、私達は物語から抜け出すことができない。いつまで経っても、物語から帰れない。 私達が物語の中で成長し、その過酷なリアルを超越した姿で戻ってくる「行きて帰りし物語」は、いったいどこにあるのだろうか。 表現が規制された世の中では、過酷な環境にある私達を描く最後の意味での「物語」は存在しないのだろうか。 いや、世の中の人々は、表現規制をむしろ「行きて帰りし物語」の実現のために行使しているのかもしれない