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【読売新聞】 謎に包まれていた旧陸軍登戸研究所の実態がどう解明され、資料館設立に至ったのかを紹介する企画展「極秘機関『陸軍登戸研究所』はこうして明らかになった!」が、川崎市多摩区の明治大平和教育登戸研究所資料館で開かれている。調査に
横浜大空襲の日の5月29日、市内各地で追悼式典やイベントが行われたが、足元のおぼつかない高齢者の姿がめだった。 横浜は三十数回の空襲に遭い、1万人近い市民が命を奪われた。なかでも1945年5月29日は、午前9時20分ごろから約1時間、米軍のB29爆撃機517機から約39万2千発の焼夷弾が投下され、市街が焦土と化した。 当時13歳の小野静枝さんは、中区山下町の横浜市立第一女子商業学校(戦後「市立横浜商業高校」、通称「Y校」に統合)の2年生で、学校で卓球をしていた。「B29が来るぞ」という教師の声に、慌てて卓球相手の友と学校を出た。敏捷な友は市電に飛び乗り、「どんなもんだい」と手を挙げてみせたが、それが最期になった。 ▽火の地図を描く不気味な液体 東横線大倉山の家に帰るため、東神奈川駅で電車の発車を待っていたら、爆音とともに電車が揺れる。飛び下りて防空壕を目指すが、壕内は人でいっぱい。振り返る
8月15日を迎えるに当たり、結核に苦しむ軍人を収容した傷痍軍人東京療養所(現・東京病院)を訪れました。敷地内のうっそうとした森の中に今も残る粗末な掘建小屋。今のように有効な治療薬がない当時、木製の硬いベッドの上で彼らは寝起きし、新鮮な空気を吸って再起を目指しました。セミのやかましい鳴き声が、かえって静寂を際立たせていました。 清瀬市には結核関係の施設が数多く存在します。清瀬駅から東京病院に向かう途中にあるこの日本BCG研究所もその1つ。満州事変が勃発した1931年、増大する結核患者に対処するため、東京府立清瀬病院が設立されたのがその始まりです。その後、ベトレヘムの園や救世軍清新療養園、傷痍軍人東京療養所など続々と関連施設が設立されました。 東京病院の真横に立つ救世軍清瀬病院(旧・救世軍清新療養園)。 清瀬駅から15分ほど歩き、東京病院の入り口に到着しました。「えっ、病院?」というのが第一印
敗戦とともに崩壊した「満州国」では、地獄絵図としか表現しようのないほど、飢えと暴力、そして絶望が蔓延した。孤立無援の満洲開拓団は次々と、集団自決に追い込まれていった。 そのとき、ある開拓団の男たちは、ひとつの決断を下した。現地の暴民による襲撃、ソ連兵による強姦や略奪から集団を守り、食料を分け与えてもらう代わりに、ソ連軍将校らに結婚前の乙女たちを「性接待役」として差し出したのだ。 犠牲となった「彼女たち」は、日本への引き揚げ後もこの忌まわしい記憶をずっと胸の内にとどめていたが、70年が経ち、その重い口を開いた――。ノンフィクション作家・平井美帆氏の特別寄稿。 託された詩 忘れられない詩がある。後半のカタストロフィーと対比を成すかのように、詩は明るい朗らかな一節からはじまる。 ≪十六才の 春の日に 乙女の夢を 乗せた汽車 胸弾ませて 行く大地 陶頼昭に 花と咲く≫ 「乙女の碑」と題された詩を書
広島への原爆投下から、6日で72年になる。広島平和記念資料館(広島市中区)では、犠牲者の遺品などの経年劣化が大きな課題だ。このためナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)の歴史を伝えるアウシュビッツ博物館(ポーランド)と連携。歴史の継承に向け、ノウハウを持つ同館に学芸員を派遣するなどの検討を進める。 平和記念資料館は、原爆死没者らの着衣や所持品などの遺品、熱で溶けたガラスや食器など約2万点を収蔵する。だが2015年、原爆投下の「午前8時15分」を指して止まった懐中時計の短針が折れているのが判明。原爆によるダメージに経年劣化が重なり、展示や貸し出し不能なものが出始めているのが実情だ。 アウシュビッツ博物館は70年前の1947年、ホロコーストがあった強制収容所の一部を活用して開館。約200ヘクタールの敷地に建物150軒以上が現存し、ユダヤ人収容者らの遺品の靴11万足以上、トランク380
6月8日、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害・大量虐殺により、アウシュビッツ強制収容所で犠牲になった人々の遺品1万6000点以上が約50年ぶりに見つかり、博物館に返還された。写真はアウシュビッツで犠牲になった人々の遺品。提供写真(2016年 ロイター/Agencja Gazeta/Lukasz Krajewski/via REUTERS) [オシフィエンチム(ポーランド) 8日 ロイター] - ナチス・ドイツのユダヤ人迫害・大量虐殺により、アウシュビッツ強制収容所で犠牲になった人々の遺品1万6000点以上が約50年ぶりに見つかり、博物館に返還された。 この遺品は、1967年に研究者チームがアウシュビッツ強制収容所跡から発掘したが、その後行方が分からなくなっていた。 アウシュビッツ博物館に収められている遺品は約400点にすぎないが、発掘の様子を記録した映像にはもっと多い数の遺品が回収される様子が映
大岡昇平の小説などでも知られる、フィリピンでの日米決戦。日本軍はフィリピンで何をしたのか。そして両国の友好の道筋と、今後の課題とは。アメリカ・フィリピン・日本の3カ国にわたる国家・社会関係史の専門家、一橋大学社会学部教授の中野聡氏が解説する。TBSラジオ荻上チキSession-22 2016年01月27日放送「天皇・皇后両陛下がフィリピン公式訪問。戦時中、日本軍は何をしたのか?」より抄録。(構成/住本麻子) ■ 荻上チキ・Session22とは TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。様々な形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホーム
1936年の二・二六事件で戒厳司令部が置かれた東京都千代田区の九段会館(旧軍人会館)をどう建て直すのか。事件から80年を経て、国の有識者会議が熱を帯びている。高層ビルとして生まれ変わる方向性は決まったものの、昭和初期の雰囲気を伝える歴史的建造物をどう残し、皇居を望む景観との兼ね合いをどうするのか。課題は多い。 九段会館は東日本大震災でホール天井が崩落、死傷者が出て閉館した。新たな活用策が検討されていたが、2014年に建て直すための改正法が成立。民間企業が九段会館の立つ国有地を借り受けて高層ビルを建てる方針が決まり、先月発足した有識者会議(伊藤滋東大名誉教授ら6人)が建て直しの諸条件を検討することになった。 有識者会議が直面する大きな課題は、歴史的建造物の保存策だ。 九段会館は1934年、軍人会館として開業。洋風建築の上に和風の大きな瓦屋根を載せた「帝冠様式」の代表作の一つとされる。二・二六
東京・上野と成田空港を結ぶ京成電鉄(本社・千葉県市川市)の63年前に廃止された地下駅の駅舎や階段が当時のまま残されていることが分かった。毎日新聞の取材を同社が特別に許可し、“タイムカプセル”が開いた。私企業の産業遺構は経済状況の変化で姿を消すのが一般的なため、奇跡的な事例だ。 遺構が確認されたのは東京都台東区の旧・寛永寺坂駅。1933(昭和8)年12月に日暮里−上野公園(現・京成上野)間2.1キロの開通に合わせ、地下区間に開業した。45年6月に日暮里−上野公…
コミケ参加とガルパン劇場版のために来日したワルシャワ軍博物館で戦車の修復をしているオペちゃんさんの靖国神社遊就館レポートです。
キャバレー経営者 福富太郎 ふくとみ・たろう/1931年、東京都生まれ。16歳から銀座で働き始め、バーテンダーやキャバレーのボーイ、支配人などを経験する。57年、26歳の時に独立、キャバレー「ハリウッド」チェーンを展開し、「キャバレー太郎」の異名をとった。現在も経営を続ける一方で、浮世絵などの日本画や洋画の収集家としても知られている(撮影/写真部・堀内慶太郎) キャバレー「ハリウッド」チェーンを展開し、「キャバレー太郎」の異名をとった福富太郎さん(84)。満州行きを逃れ、生き延びた彼が戦後間近にあった市民の戦争史を明かした。 * * * 戦争も終わりの頃になると、いろいろなデマが飛んでね。 学校に行ったらね、同級生の奴が言うには、焼け跡を歩いていたら赤ん坊の死骸があったと。その赤ん坊がピョコンと飛び起きて、「おじさん、ラッキョウ食べなさいよ」って、口をきいたんだとさ。丸焼けの赤ん坊がね
僕は父の仕事の関係で、終戦を旧満州の奉天で迎えました。6歳のときのことです。当時の満州には100万人の日本人が住んでいました。 (上)終戦の前年、旧満州で撮った家族写真。後列左から2番目の一番大きい子がちばさん。(下)旧満州での難民時代を思い出して、ちばさんが描いたイラスト。徐さんという中国人にも助けられ、なんとか生きて帰った。当時、旧満州では20万人以上の日本人が亡くなった。 日本人の居住区は高い壁でぐるりと囲まれて、入り口を日本軍の兵隊が警備していました。大人からは、子供は居住区から出るなと言われていましたが、よく外の中国人街に遊びに行って、怒られましたね。終戦前の満州は食料こそ不足していたものの、空襲などはあまり無く比較的平和でした。 でも、1944年の秋くらいから、ちょっとずつ町の雰囲気が変わり始めました。町へ出ると、日本人を見る周囲の中国人や朝鮮人たちの目つきが、険しくなってきた
太平洋戦争中、過酷な戦場体験や軍隊生活の影響で精神障害を患い、戦後70年を迎えてなお療養中の旧軍人・軍属が、今年3月末現在で九州7県に6人おり、うち3人が入院中であることが、西日本新聞の取材で分かった。 【写真】降り注ぐ焼夷弾 福岡壊滅 火の雨降る 福岡県の98歳の男性など、70年以上にわたって入院生活を続けてきたとみられる人もいる。戦地での結核や外傷などの治療を続けている戦傷病者も7県で計43人に上る。戦争がもたらす心身の傷の深さが、あらためて浮き彫りになった。 一定程度以上の障害や療養の必要がある旧軍人・軍属には、戦傷病者特別援護法に基づいて戦傷病者手帳が交付され、医療費給付などの援護が受けられる。 九州各県によると、3月末現在で戦傷病者手帳を持っている人は、福岡392人▽佐賀95人▽長崎382人▽熊本270人▽大分137人▽宮崎167人▽鹿児島421人−の計1864人。このうち
1945年8月6日、広島で人類史上初めて使用された核兵器。 その年の末までに14万人以上の命を奪ったという数字は残されているが、原爆による熱線、爆風、放射線にさらされた人々がどう逃げまどい、命つき、あるいは、生き延びたのか、その全体像は実際の映像が残されていないために、70年の間正確に把握されてこなかった。 巨大なきのこ雲が上空を覆う中、その下の惨状を記録した写真が、わずか2枚だけ残っている。原爆投下の3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」の上で撮影されたものだ。 被爆70年の今年、NHKは最新の映像技術、最新の科学的知見、生き残った被爆者の証言をもとに、初めて詳細にこの写真に映っているものを分析し、鮮明な立体映像化するプロジェクトを立ち上げた。きのこ雲の下の真実に迫り、映像記録として残すためである。 平均年齢が78歳を超えた被爆者たちは、人生の残り時間を見つめながら、「いまだ
戦後70年の変化 これまでアメリカの世論は原爆投下を支持する意見が大半だった(写真は広島平和記念資料館の展示資料) Toru Hanai-REUTERS 広島と長崎に原爆が投下されてから70年――。 これまでアメリカでは、原爆投下は戦争を早く終わらせるために必要な「正しい」判断だったという見方が世論の大勢を占めていた。しかし70年の時を経て、その意識に変化が起こり始めている。 インターネットマーケティングリサーチ会社の「YouGov(ユーガブ)」が先月発表したアメリカ人の意識調査によると、広島と長崎に原爆を投下した判断を「正しかった」と回答した人は全体の45%で、「間違っていた」と回答した人の29%を依然として上回っていた。 しかし調査結果を年齢別に見ると、18~29歳の若年層では、45%が「間違っていた」と回答し、「正しかった」と回答した41%を上回った。また30~44歳の中年層でも、3
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