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ブックマーク / k-onodera.net (7)

  • 『思い出のマーニー』米林作品の「反創造」姿勢とは

    以前、ブログ記事『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーションを書き、かなり悪し様に言葉を尽くして、米林宏昌監督をののしった。そのくらい、米林監督の初監督作『借りぐらしのアリエッティ』のつまらなさというのは、人智を超えたものだった。 そもそも、テーマやストーリー以前に、何を見せたいのか、何を感じさせたいのかが不明瞭なほど、演出のレベルが低くセンスも無いために、作品としての体(てい)を成していなかった。 仮に、目一杯好意的に見て、スタジオジブリ作品で初監督を務めることのプレッシャーや現場の意思疎通不足、混乱などを加味しながら、演出の不備を最大限に看過し擁護するとしても、それでも最も失望し驚かされたのは、作品から感じられる個性や野心の欠如、創造性の欠如、知性や主義主張の欠如、ユーモアと観客へのサービス精神の徹底的な欠如という、あまりにも根的な資質や姿勢が欠如していたことであり、

    『思い出のマーニー』米林作品の「反創造」姿勢とは
  • イーストウッド『許されざる者』の保安官は、何故家を建てているのか。

    クリント・イーストウッド監督・主演作品『許されざる者』は、西部劇の名作であるとともに、深く観てみると難解な作品でもある。 そもそもタイトルにある「許されざる者」とは誰のことなのだろうか? 作では、罪ある人間たちが何人も描かれている。娼婦の顔をナイフで切りつけた男と連れの若い男、人殺しや強盗に明け暮れ仲間までも容赦なく殺害していたという主人公・ウィリアム・マニー、かつての相棒ネッド・ローガン、賞金首を撃ち殺したスコフィールド・キッド、名うての賞金稼ぎイングリッシュ・ボブ、公の立場を利用して強権をふるう保安官リトルビル・ダゲット、娼館の主人・のっぽのスキニーなどである。 子供達などを除いて、この映画に登場する誰もが、何かしらの罪にまみれている。主人公・ウィリアム・マニーにしてからが、悪名高い強盗できわめつきの悪党という過去を持っている。『シェーン』の主人公のような、精錬潔白に「正しい男」など

    イーストウッド『許されざる者』の保安官は、何故家を建てているのか。
  • ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 【レビュー後編】

    『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は紛れも無く、アニメーションの歴史に名を留めるだろう、稀有な作品である。 前回に引き続き、場面の解説を進めながら、その理由を明らかにしていきたい。 渚カヲルは、「償えない罪はない、希望は残っているよ」とシンジに言った。それが「もう一度エヴァに乗る」という選択肢だった。 当然、シンジはこれを拒否するが、DSSチョーカーをシンジの首からはずし、代わりにそれを自分の首に巻くカヲル。 死のリスクを代わりに引き受けるという犠牲的な行為を見て、閉じこもったシンジの心がやわらぐ。 カヲルの提案は、ふたりでエヴァに乗り、ターミナル・ドグマまで降下、そこにあるカシウスの槍とロンギヌスの槍を手にし、ふたりが新たな世界の創造主として、世界を修復するというものだった。そしてそれは、ゲンドウの思惑とは異なったものであるらしい。 「カシウスの槍」は、新劇場版で初出したアイテム(初号機を

    ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 【レビュー後編】
  • ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 【レビュー前編】

    「神を殺した俺達は、どんな贖罪の祭り、どんな聖なる劇を考案しなければならないか? この儀式は、俺達にとって手に余るのではないか? 俺達がそれを行うには、自らが神になる必要があるのではないか? これより偉大な所業は、未だかつてないのだ。」 -フリードリヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」- 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は、近年つくられた、アニメーションを含む映画作品全体の中でも、最も野心的で、反権力的で、豊かでありながらストイックに、重要で普遍的なテーマを扱った、稀有な傑作だった。 私は「破」公開時に、このブログ記事にて同作を批判し、それに対し一部ファンから反発的なコメントも少なからず頂いた経緯があるのだが、そのような当時感じた私の不満が、「Q」単体においては、ほぼ全て解決され、旧劇場版と同様に、現代の多くの観客たち、とくに新しい世代の若者が鑑賞する価値のある、はるかに志の高い作品に変貌していた

    ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 【レビュー前編】
  • 『風立ちぬ』人生の美しき罠

    友だちっていうのは、毎日ご飯を一緒にべたりとか、そういうレベルのもんじゃない。当の友だちっていうのは、離れていたっていい、会わなくったっていいんだよ。まったく知らなくてもいい。そういうものだよ。 「細野晴臣のぶんぶく茶釜『友だち。』より」 風の吹く美しい草原の中にいる、少年・二郎。そこには、少年の憧れる飛行機が大挙して飛んでいる。学校の教師が貸してくれた、イタリアの雑誌に載っていた機体達だ。二郎はこの場所が夢の世界であることに気づく。そこで二郎は、飛行機製作に燃える、不敵な笑みをたたえた男・カプローニ伯爵と邂逅する。 このジョヴァンニ・バッチスタ・ジャンニ・カプローニ伯爵というのは、実在の人物であり、第一次大戦中に爆撃機や輸送機の生産で名を馳せたイタリアの革新的天才設計家である。 「ここは私の夢の中の筈だが…」「僕の夢でもあります」「そうすると、夢と夢がくっついたというのか」 この草原

    『風立ちぬ』人生の美しき罠
  • 『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-A 奴隷描写は正しいか

    「イーストウッドが西部劇を殺した」と言われるのは、彼の監督・主演作『許されざる者(92年)』において、「丸腰の敵を撃った」ことに起因する。 西部劇の世界では、いかなる理由があろうと、銃を持たない相手を撃ち殺せば、ヒーローはヒーローの資格を失う。そして、ヒーローのない西部劇は西部劇でなくなってしまう。 チャールズ・ブロンソン『狼よさらば』以降の現代的な犯罪映画に慣れた観客からするとなんでもないことのように思えるが、格的な西部劇にこのような描写を加えたというのは、往年のウェスタン・ファンに大きなショックを与えるものであったのは間違いない。 しかし、確かにイーストウッドは、主人公ウィリアム・マニーの行為を、それでも倫理的にギリギリ正しいこととして描写している。 ジーン・ハックマンが演じた『許されざる者』の保安官は、強固な保守主義の持ち主で、リチャード・ハリス演じる鼻持ちならない英国人賞金稼ぎ(

    『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-A 奴隷描写は正しいか
  • 『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-B 捨て去られるポストモダン

    『ジャンゴ 繋がれざる者』の黒人奴隷問題についての取り組みは、「『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-A 奴隷描写は正しいか」で述べたので、今回は「SIDE-B」として、作におけるメタフィジックな面からの作品理解と技術上の取り組みについて述べたい。 作のタイトルと主題歌、主人公の名前は、マカロニ・ウェスタンの代表的監督のひとりであるセルジオ・コルブッチの『続・荒野の用心棒』(“Django”)からきている。 「続」なんて言ってるので、邦題ではセルジオ・レオーネ監督による『荒野の用心棒』の続編のように思ってしまうが、実際は設定が少し似ているだけで、『荒野の用心棒』とは何も関係が無い。そしてこの”Django”自体も、異なった俳優や異なった監督で、『皆殺しのジャンゴ』、『血斗のジャンゴ』と、正統な流れがよく分からないまま、乱暴にタイトルがつけられていた。 アメリカでの公開時にもやはり同じ状

    『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-B 捨て去られるポストモダン
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