ネットプリント「金曜を漕ぐ」を発行しました。 セブンイレブン(~12月30日)A3、白黒→35956998 PDF→PDFダウンロード ※『週刊金曜日』の連載記事「金曜俳句」(選者・櫂未知子)に採用された、2023年末までの83句を、発表順に並べたものです。 ※「金曜俳句」では、毎回ふたつの季語による題詠を募集し、投句者は、最大10句まで投句できます。各季語につき、特選句が1句、ないし0句選出され、その他一般入選句(いわゆる「平抜き」)が数句掲載されます。
短詩グラマトロジー 第十回:数装法 斎藤 秀雄 簡単に定義するなら「数の魔性を詩性に利用すること」となるだろうか。中村明は《数字に関連したことばを文章中にちりばめる修辞技法》(『日本語の文体・レトリック辞典』、東京堂出版)と定義する。これが修辞となりうるのは、《その模様と表面上の意味とで濃淡二重のイメージを仕掛ける》ことになるからだ(同前、「類装法」の項目。数装法は類装法の一種とされる)。たしかに数には数としての意味(何個、何ヶ月目、等)と、視覚的模様がある。 映画『マトリックス』では、主人公ネオの住居の部屋番号は101。これは、のちに自分がThe One(救世主)であると知ることの暗示であり(NeoがそもそもOneのアナグラムである)、世界がプログラムされたMatrixという仮想現実であることの暗示であり(二進法)、またオーウェル『一九八四年』に登場する拷問・洗脳
この連載の第六回で、「濫喩」を、中村明による定義を借りて《感覚の交錯や論理的な矛盾を抱えた比喩などを提示して刺激する修辞技法》(『日本語の文体・レトリック辞典』、東京堂出版)にまで拡張しておいたのだが、いま思えばこれは拡張のし過ぎであった。《感覚の交錯》(つまり共感覚的な表現)についていえば、むしろ〈異例結合〉と呼ぶべきかもしれない。例えば川端康成『雪国』には、異例結合が頻出する。「甘い丸さ」「静かな嘘」など。 さて、これを複数のフレーズにまたがって交差させたものが〈交差呼応〉である(とはいえ、のちにあげる例においてのように、必ずしも「異例」ではないものも含める。詩的効果が生じるかにのみ、焦点を合わせたい)。中村は《彗眼で聞き、地獄耳で見る》(同前)という例をあげている。
(水の奥処へ……) 斎藤 秀雄 水の奥処へ多くの私が移ってゆく いつか私と呼ばれることになる諸断片 まだ私になっていない未私 奥処――何にとっての? いくらかは底へ沈み いくらかはこなごなにほどけて散ってしまうだろう……。 底――何にとっての? 水の多くの領土 水蒸気になりかけている水 氷になりかけている水 粘性をそなえた水 浮かんだり沈んだり混じったりできない 速度の線が水の領土を区別して抑え込んでいる 速度の線のみがあって上下はないのかもしれない 未私はなかばほどけた布のような断片 ほつれた織物、多くの繊維が織られたもの さまざまな繊維、ナイロンの糸、ガラスの糸、骨、リボ核酸 ゆるい織り目を水がとおる 繊維がゆるんだり緊ったりする ゆるんだ繊維が別の繊維とまた織物をなす ほどけた繊維はほとんどどこかへ消えどこかに沈殿する 断片はそれぞれが知覚である 或るひとつの断片は引用である 「骨の
「ほんとうの日本」とは何か──R・H・ブライスの“金言”を読む 俳句に恋し、昭和天皇の「人間宣言」に関わった異能の英国人 香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家 日本語に堪能な「外国人」は今や珍しくないが、日本語による独自の表現形式である俳句について、その真髄を理解し、やさしく語ることのできる外国人は、めったにいない。 明治維新前後、日本の文化、社会に強い興味をもち、海外に発信した外国人には、ラフカディオ・ハーンやアーネスト・フェノロサ、ポール・クローデルなどがいる。日本への興味と愛着を人一倍もちあわせていた彼らにしても、日本語独得の表現形式である俳句や川柳にまでは、なかなか踏み込めなかった。 そんな難事業を見事にやりとげる一方、太平洋戦争直後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)と日本政府双方から信頼され、昭和天皇の「人間宣言」の起草にひそかにかかわった人物がいた。『ほんとうの日本──芭
rhythm is not takt 斎藤 秀雄 ※ ※ ※ 眼を渡す 甘き唱歌の 海を 裏声の 砕きし 鉄に焦がれて 血の凱風の 海の妣 丘去る楡に 水芭蕉 笑みて口なし ※ ※ ※ 日には 漉返し 向日葵 橋守 なつかし 白鳥が死ぬ 塵を掬へば 日のなきがらへ 名の王国 稚児の抜殻 口ひらき ※ ※ 鳩放つ 婚姻の 方舟や 白客船の 兄抱くは 猛火に 秘色の鴉 折る歯 ※ ※ 古き罠待つ 空中都市の 手
ハイクノミカタ 水鳥の和音に還る手毬唄 吉村毬子 2022/4/19 ハイクノミカタ, マンスリーゲスト 「LOTUS」, 「未定」, に, の, 九堂夜想, 吉村毬子, 和音, 手毬唄, 水鳥, 還る 水鳥の和音に還る手毬唄) 吉村毬子 (『手毬唄』)) 吉村毬子さん、貴女が泉下の俳句國へ赴いてから早五年が過ぎました。その間、貴女が遺した唯一の句集『手毬唄』を時折り繙いては、同じ「LOTUS」同人として、そして束の間ながら生活のパートナーとして共に歩んだ日々を懐かしく思い返したりしたものです。先日も夜遅くに詩歌書のならぶ書棚を整理しながら、何気なく手にした貴著につい読みふけり夜明けを迎えたなどということがありました。貴女の生前に『手毬唄』の感想をじかに述べなかったことに他意はなく、しかし、一時のすれ違いが結果的に永遠の別れになってしまったのはやはり遺憾で、今でも何かしら言いそびれたままに
DO DA DOO 斎藤 秀雄 ※ 桃の花 焼き尽くされて 凪を待つ舟 ※ 言ひさして ふぐりに 隠す 黒き印泥 ※ 酢の壜倒れ 白き指生え かの 暗緑湖 ※ 銀の港の 船の灯の 未練がましき 着衣の卵 ※ 薬籠や 夜毎に 纏ふ 贋古代裂 ※ 尼の 書窓の 黒ずむままに剃る 腋よ ※ 煙たき 花よ 網棚の 極楽鳥よ ※ 二度童子 埃を 泳ぎ 坐礁の頭 ※ 貝の 目の 都の 咎の 時の 受胎 ※ 蝶が透く 起源の壁に 幼き楕円 タグ: 斎藤秀雄
『LOTUS』49号(2022年2月)が届きました。特集は「多行形式の論理と実践〔評論篇2〕」。これは 『LOTUS』47号(2020年12月)「多行形式の論理と実践〔作品篇〕」 『LOTUS』48号(2021年8月)「多行形式の論理と実践〔評論篇1〕」 に続くもので、多行三部作をなすものです。 私は未補さんとの対談形式で「一行という多行」なる記事を寄せています(未補さんは47号に作品を寄せています)。 ところで、この「一行という多行」という対談の冒頭は、こうなっています。 未補 高柳重信は、《多行表記は、俳句形式の本質が多行発想にあることを、身にしみて自覚しようとする決意の現われである》(「批評と助言」『俳句評論』昭和四四年七月)と述べています。私には、重信が言おうとしていることの意味が正直よく分からなかったのですが……。斎藤さんは《俳句形式の本質が多行発想にある》という意味をどう考えま
一年間、ひとつのテーマ、ここでは〈惑星的〉というテーマに絞って書くことを、みずからに課したのだが、予想以上に骨が折れる試みであった。予想以上に、アクセス可能な世界は、私が〈惑星的(planetary)〉という言葉を用いて批判しようと考えている諸文脈に覆われていたからだ。すなわち、ドメスティックな文脈、およびその覇権主義的な延長・拡張に過ぎないインターナショナルな(international)文脈、グローバルな(global)文脈である。それらの文脈をシャットアウトしてみると、あたかも俳句などこの世のどこでも書かれてなどいないのではないかと感じられる一年間であった(そして、それはじっさいにそうなのかもしれない)。 論じるべきトピックは無数に残されている。この最終回では、今後私が長く取り組んでゆきたいと考えているトピックに触れておこう。それをひとことでいえば「メタ価値論」とでもなるのだが、あい
■第7回詩歌トライアスロン三詩形鼎立受賞(連載1回) 電気まじなひ 斎藤秀雄 彗星の血かなむらさき胎児かな うつろ客天のくぼみに手を頒つ 椅子の尾の戦げり浜の死魚に腕 御師咲いて電気まじなひ口のなか 旅人よやぶれ木馬の舌なれや 櫨叫び兄のらせんの骨あらは 球場地下鳥人を巻く時計の根 老少年水の火花を嗅ぎながら 排卵を爪埋没の水銀鳥 永劫や沈む回転階段や タグ: 斎藤秀雄
第8回詩歌トライアスロン・三詩型融合 次点作 読む書物 斎藤秀雄 紙の束ねられたものを 紙に手を 春まけて あなたは読むだろう。 のせて言葉を 紙に 読む手と つぶやけば 手を置く 読む目のとよみが 洞深くまで 夕べかな いくつかのフローを 暗きたぶの木 町をでて 流れが流れてゆく 橋の灯を 町へ 同期しないで あびて木屑は 入りたる スピードで 川下へ 春の川 半透明の断片たちは 流れつつ手を 風下の 透明で 反らせるあなた 森 ひろびろと 図書館の ひろびろと 共有図書館のフロアが 窓にあまたの 巣箱かな しらしらと 花びらが 夕桜 書物たちが 張りついて死の 橋近ければ がちゃがちゃと くちびるの色 しらしら
(1) 言語野の 端(はな)ばかり見て 秋の暮 木村 リュウジ はらからの そのははからの 波羅蜜多 枯尾花 或る辭失くして 揺れ止まぬ 木村リュウジ。本名、木村龍司。1994.8.8〜2021.10.21。突如、木村はこの世を辞した。彼を知る人はまだその事実をしっかりと受け止められずにいる。 掲出三句は、木村がLOTUS 2018年10月句会に寄せた彼の多行形式俳句デビュー作である。以前、「俳句時評 第130回 多行形式俳句(4)月光魚は帷の淵に」に書かせていただいたように、彼はLOTUS同人の酒卷英一郎の三行形式俳句に魅せられて、LOTUS句会に参加して、自らも三行形式俳句を書き始めた。その記念すべき作である。<言語野の>は、この句会における最高点句であった。華々しいデビューである。筆者は句会が開かれる東京から遠方であるため、欠席投句
【第7回詩歌トライアスロン・詩歌トライアスロン(三詩型鼎立)受賞作】 自由詩「下=上」他 斎藤秀雄 短歌 手の影が石を収める閉域のなにもみなぎるものなき力 あやとりの手はくりかえし祈れども赤い切り取り線にまみれる 曲線をたどる指先ひとところくらがりなれば濡れてあらわる 逆光の手は輪郭の囚われの罅に壊れぬひらたいさなぎ 死が垂らす糸がときおり耳にふれ耳の流れるせせらぎおもう ハトロンの紙の四隅は憂鬱をわずかに帯びて身を丸めゆく 甘やかに匂うパン屋の貯蔵庫の秤に目玉載せたきものを いちまいの顔に深さのないことを顔をはなれる表情に知る 降る雪に口をひらけばうちがわを巨大なものに曝してしまう 耳元に息をめぐらせ合うことのささやきという川のような名 俳句 鋼なす月の廊下を紙の舟 スピノザが焼け跡に吸ふ扉かな 雁や火のまじなひに手の遊び物 深窓の蠟を育てて霧の果 倦むのみの檸檬抛れば刻の森 朽ちざ
おうむ岩 鸚鵡石(おうむいし)は、その石にむかって声や音を発すると、オウムのようにその声や音のまねをするとされる石である。その原理は、山彦に似る。 日本の各地に鸚鵡石やその類と伝えられる石があるが、有名なのは三重県志摩市磯部町恵利原にある鸚鵡岩(おうむいわ)[1]で、霊元天皇の叡覧に供したという。 全国各地の鸚鵡石[編集] 福島県須賀川市大栗にある鸚鵡石 愛知県田原市伊川津町にある鸚鵡石[2] 三重県度会郡度会町南中村にある鸚鵡石[3] 三重県志摩市磯部町恵利原にある鸚鵡岩 三重県志摩市の鸚鵡岩[編集] おうむ岩展望台 鸚鵡岩(おうむいわ)は三重県志摩市にある奇岩である。「鸚鵡」の漢字が難しいので一般に「おうむ岩」と表記される。伊勢志摩国立公園に属する。 明治には小松宮彰仁親王、大正には久邇宮邦彦王、昭和には東久邇宮稔彦王が訪れている[4]。 概要[編集] 幅127m、高さ31m[5]の一
前回の記事(「惑星的な俳句について」)で私は「日本の俳句」を「俳句」のサブ・システムとして位置づけた。機能的に分化した近代の諸社会システムは、セカンド・オーダーの観察(観察を観察すること)のレヴェルにおいて成立しているから、セカンド・オーダーの観察を失った「日本の俳句」は死んだ。より穏当な表現でいえば脱分化(Entdifferenzierung)してしまった――同じことだが。このように整理してみると、脱分化したサブ・システムが、その結果、上位のシステムに吸収されなかったことは不思議なことである。リビングとダイニングのあいだの壁・間仕切りを取り除くタイプの脱分化ではなく、柱も床もゆっくりと朽ちて、沈んで消滅していったようにみえる。むろん、「不思議な」というのは皮肉で言っているのだが。 今回の記事では、19世紀末から20世紀初頭にかけて俳句に生じたできごとを、レジュメを切るように、箇条書き的に
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