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ww2に関するkiyo_hikoのブックマーク (56)

  • The End Of The Japanese Battleship Yamato - World Documentary Films HD

    kiyo_hiko
    kiyo_hiko 2022/02/18
    よく言われているWW2の趨勢そのものだった。日本は単艦で複数艦を鎮めるのを狙ってたこと、空母が艦隊戦の趨勢を決める兵器になったこと、最終的に単独で400機の爆撃で沈んだこと。ナレイションも聴きやすい
  • 海に眠る30万の遺骨【報道特集】

    kiyo_hiko
    kiyo_hiko 2021/09/04
    100年経つと史跡となり回収ができなくなるとか、外国人ダイバーの撮影の小道具にされてるとか、宇部の海底炭鉱の話とか
  • アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは | 終戦、75年目の夏 | 文春オンライン

    前年12月から日軍によるアジア全域での残虐行為の立証が集中的に進められ、年明けからは捕虜虐待事件が広範に取り上げられていた。「父島事件」もその1つだったようだ。記事の見出しは「會(会)に米飛行士の人肉試 的場少佐の『父島の残虐』尋問書」。的場少佐とは、父島駐屯の独立混成第一旅団に所属する独立歩兵第308大隊長・的場末勇陸軍少佐のことだ。 記事の見出しには「人肉試」とある 1947年1月14日東京朝日新聞より 問 同島(小笠原父島)最初の人肉試事件は? 答(=的場末勇陸軍少佐) 昭和20(1945)年2月23日、米飛行士処刑の報告を橘将軍(陸軍少将)に行った際、私のための宴会で初めて飛行士の人肉が試された。それは、橘将軍が第307大隊司令部に電話で甘藷(イモ)酒1斗と肉を届けるよう命じた。肉は加藤大佐の部屋で料理された 問 人肉であることを知っていたか? 答 そうだ 問 どのくら

    アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは | 終戦、75年目の夏 | 文春オンライン
    kiyo_hiko
    kiyo_hiko 2020/08/17
    父ブッシュの日本人観に影響あったとかのやつか。逆にこんなことしてしまうから自分らも米軍に同じことされるんじゃないかとおびえて投降できずに死ぬしか無かったんだろうな
  • ヨシフ・スターリン - Wikipedia

    ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин、グルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი、ラテン文字表記の例:Iosif Vissarionovich Stalin、1878年12月18日(ユリウス暦12月6日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家[1]。同国の第2代最高指導者 (1924年 - 1953年) [2][3]であり、 ソビエト連邦共産党中央委員会書記長(1922年 - 1934年)、ソビエト連邦人民委員会議議長・ソビエト連邦閣僚会議議長(1941年 -1953年)、ソビエト連邦国防人民委員・軍事大臣(1941-1945)などの役職を歴任し、ソ連邦英雄の称号を持ち、軍人としての最終階級はソ連邦大元帥である。民族的にはグルジア人。 1924年1月から1953年3月に渡って同

    ヨシフ・スターリン - Wikipedia
    kiyo_hiko
    kiyo_hiko 2019/11/30
    ”スターリンは日独伊三国同盟にソ連を交えた「日独伊ソ四国同盟」をモロトフを通じて駐ソ大使に提示した” まじか。これが実現してればWW2もっと彼我の戦力が拮抗して泥沼化できたかも知らんのにヒットラー残念だな
  • ミッドウェー海戦での日米の激突を描く映画「ミッドウェー」ティザー予告編公開

    1942年に繰り広げられた、日軍とアメリカ軍の機動部隊による一大決戦「ミッドウェー海戦」を描く映画「Midway(ミッドウェー)」のティザー予告編が公開されました。 監督は「インデペンデンス・デイ」「デイ・アフター・トゥモロー」「2012」「ホワイトハウス・ダウン」のローランド・エメリッヒです。 Midway (2019 Movie) Teaser Trailer — Ed Skrein, Patrick Wilson, Nick Jonas - YouTube 最初に気付いたのは少女 彼女の目の前では、次々とアメリカ海軍の艦艇が爆撃を受けていました。 次々と炎上する艦艇 さらには、通りを飛び抜けつつ機銃掃射。 タイプされているのは…… 「AIR RAID ON PEARL HARBOR(真珠湾に空襲)」。 戦死した兵士たちの葬儀が執り行われます。 「日は何かもっと大きなことを計画して

    ミッドウェー海戦での日米の激突を描く映画「ミッドウェー」ティザー予告編公開
  • 戦後後米軍に撮影された大日本帝国の艦船 (カラーフィルム映像1)

    米公文書案保管映像。海軍内には対立があり、ロンドン軍縮条約の後に統帥権干犯問題に発展。1933年に大角人事で条約派の将官が多数追放された(大将2・中将4など) これを機に軍令部は影響力を拡大。開戦すると戦果を拡大解釈し損害は中央内部(軍令部・GF司令部など)で秘匿し、都合のいい戦果を政府・陸軍等に報告するありさまだった(ブーゲンビル島沖・台湾沖航空戦など各航空戦及び比島沖の過大戦果など)。それを信じた陸軍は作戦を狂わされ輸送中に海軍の報告によれば壊滅したはずの米機動部隊に襲われ多数が交戦することなく海没した。また陸軍と比べ防諜にも不活発で機密漏洩の兆候がありながら、それを無視していた(伊124の文書回収・乙事件など)。事実海軍商船暗号が解読されたため、航路情報は連合軍に筒抜けだった

    戦後後米軍に撮影された大日本帝国の艦船 (カラーフィルム映像1)
  • サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説 - データベース「世界と日本」

    kiyo_hiko
    kiyo_hiko 2017/06/03
    "開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました"
  • 人種蔑視に基づく蛮行 …日本軍将兵の頭蓋骨は35$の土産物にされた! - 華やぐ日々よ …詠山の占い放談

    人種蔑視に基づく蛮行  …日軍将兵の頭蓋骨は35$の土産物にされた! 米紙ロサンゼルス・タイムズは4月18日、アフガニスタンに駐留する米軍兵士 が、爆弾テロ容疑者の遺体と共に笑顔で記念撮影した写真を紙面に掲載した。 同紙に依れば、現役の或る兵士から軍規の乱れを告発することを目的として、 2010年に撮影された18枚の写真が、匿名を条件に提供され、その内の2枚を、 パネッタ米国防長官からの掲載を見合わせるようにとの申し入れを撥ね退け、 紙面に掲載したとのことである。 1枚は、路上爆弾を仕掛けようとして射殺されたテロ容疑者の遺体の手を、 米陸軍第82空挺師団の兵士が自分の肩に乗せて笑みを浮かべ、その後ろで その遺体に手を伸ばす別の兵士が写っている写真である。 もう1枚は、米陸軍第82空挺師団が南部ザブール州の警察署を訪れ、 自爆テロ犯の遺体を検分した際に撮影されたもので、遺体の足を持ち上げて

  • 連合国軍占領下の日本 - Wikipedia

    連合国軍占領下の日では1945年から1952年までの7年間にわたり、連合国軍最高司令官総司令部の占領下に置かれた日国について解説する。 占領期間は約7年で、連合国軍最高司令官総司令部は実質上、アメリカ合衆国による日国の占領機関である他、日歴史において唯一、国外勢力の支配下に入った期間である[注釈 2]。 占領の形態については、戦時占領説、保障占領説、特殊占領説がある。連合国は日に対し、戦時占領とも保障占領ともとれる扱いを行っており、純粋なそれらではない、特殊占領であるという見方が多い[1]。 この期間に一般的に戦後改革と呼ばれる政策が実施され、日国憲法の制定、土地制度の改変、極東国際軍事裁判(東京裁判)などが実施された。 概要[編集] 東久邇宮稔彦王と内閣 バターン号で厚木海軍飛行場に到着したアメリカ軍のマッカーサー陸軍大将 降伏文書調印に向かう日政府全権 日国政府は、1

    連合国軍占領下の日本 - Wikipedia
    kiyo_hiko
    kiyo_hiko 2015/08/23
    "連合国軍は日本人から接収した住宅の池をプールに造り替えたり…気晴らしにガラス窓を銃で撃ち割って日本人労働者に交換させた" "アメリカ軍が日本に進駐したわずか最初の10日間に、神奈川県下で1336件の強姦事件"
  • 総力戦研究所 - Wikipedia

    総力戦研究所(そうりょくせんけんきゅうじょ、旧字体:總力戰硏究所󠄁)は、大日帝国において1940年(昭和15年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された、内閣総理大臣直轄の研究所である。 この機関は国家総力戦に関する基的な調査研究と“研究生”として各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちに対し、総力戦体制に向けた教育と訓練を目的としたものであった。1945年(昭和20年)4月1日付施行の勅令第115号により廃止。 概要[編集] 陸軍省経理局に置かれていた「戦争経済研究班」、通称「秋丸機関」の機能を引き継いだ機関で、来の目的は「国防」という問題について一般文官と軍人(武官)が一緒に率直な議論を行うことによって国防の方針と経済活動の指針を考察し、統帥の調和と国力の増強をはかることにあったとされている。総力戦研究所構想は企画院第一部長の沼田多稼蔵

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    kiyo_hiko 2015/08/15
    "第一期生の入所から3か月余りが経過した昭和16年7月12日。…末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能という日本必敗の結論を導き出した" 1941年に、既にほぼ現実通りの戦局を割り出していた
  • TVディレクター 飯村和彦 kazuhiko iimura BLOG:結論は「日本必敗」…開戦前に存在した「奇跡の組織」総力戦研究所とは?

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    kiyo_hiko 2015/08/15
    "政府肝いりの機関だった総力戦研究所が、 軍部暴走の主因であった「統帥権の独立性」に関して、 ここまで明快に否定していた事実は歴史的に重い"
  • 枢軸国フィンランドの敗戦から伝えたいこと - ゆとりずむ

    こんばんは、らくからちゃです。 今年は戦後70年ということもあって、各テレビ局も番組作りに気合を入れているみたいですね。個人的に気になった番組はこちら。 小栗旬、松坂桃李、福士蒼汰、有村架純、広瀬すずと、まさにいま引っ張りだこの若手俳優・女優さんたちが戦争について学んでいくという企画のようです。内容も興味深いのですが、わたしが気になったのは同サイトにあったこのグラフ。 戦争を知る世代は、全人口の一割にも満たなくなってしまったようです。私事ではございますが、わたしもここ一年近くの間に、二人の『戦争世代』の祖父を亡くしました。 戦時中、父方の祖父は、満州で偵察機に乗り空から写真を撮る任務にあたっていたそうです。戦後は、理工学部で学んだ後、大学向けの教科書会社で役員を務め、引退後はデジカメで撮った写真を自分で作ったホームページに載せてみたり、戦友会の仲間と全国を遊びまわったりと、なかなかパワフル

    枢軸国フィンランドの敗戦から伝えたいこと - ゆとりずむ
  • 真珠湾奇襲攻撃が「だまし討ち」になる理由(1/2) - OKWAVE

    相手国との外交交渉中に奇襲攻撃をかましたのは、戦史上、日が最初で最後です。 これは、まさに「だまし討ち」といえるでしょう。 ご存知だとは思いますが、おさらいのため当時の流れを記しておきますと、 当時の日は、アメリカの経済制裁で屑鉄や石油が入らなくなり、ヒイヒイ言っておりました。このままではジリ貧の為、1941年初頭からアメリカと経済制裁解除のための交渉を始めます、日側のぎりぎりまで妥協した提案(乙案、11月20日)に対する米側の対案(ハルノート、11月27日)が提示され、アメリカ側としてはその返答を待っているところでした。 来であれば、日は最低でも攻撃前に交渉決裂を通告しなければなりませんでしたが、それすら行なってません。真珠湾攻撃が問題視されるのは「宣戦布告が無かったこと」ではなく「交渉打ち切りの通告が無かったこと」が大きな理由です。 例えるならば、笑顔で握手をしようと手を差し

    真珠湾奇襲攻撃が「だまし討ち」になる理由(1/2) - OKWAVE
  • 九大生体解剖事件:戦争の愚劣さ語る資料 福岡で公開 - 毎日新聞

  • 大西瀧治郎 - Wikipedia

    大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年(1891年)6月2日 - 昭和20年(1945年)8月16日)は、日の海軍軍人。海兵40期[注釈 1]。神風特別攻撃隊の創始者の一人。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。 笹井醇一(海軍少佐、太平洋戦争のエース・パイロット)は甥(大西の・淑恵の姉である久栄の息子が笹井)。 生涯[編集] 若宮 (水上機母艦) 1891年6月2日、兵庫県氷上郡芦田村(現:丹波市青垣町)の小地主、父・大西亀吉と母・ウタの次男として生まれる。 旧制柏原中学校在学中、日海海戦勝利の時期であり、中学の先輩から聞かされた広瀬武夫中佐を熱心に崇拝した。1909年、海軍兵学校40期[注釈 2]に20番の成績で入学し、兵学校では、名物の棒倒し競技で、同期の山口多聞と毎年大暴れして、抜群の棒倒し男と目された。剣道は兵学校で最高の一級、柔道も最上位であった[2]。寄宿舎の寮長も

    大西瀧治郎 - Wikipedia
    kiyo_hiko
    kiyo_hiko 2015/05/08
    肉を利用するのはもっと計算高さに振れた人かと勝手に想像していたが、寧ろ情の人と肉との出会いが特攻を生んだのか
  • 甲標的 - Wikipedia

    前方から見た甲標的甲型 「en:Submarine Force Library and Museum」(アメリカ・コネチカット州)所蔵。 後方から見た甲標的甲型 「en:Submarine Force Library and Museum」(アメリカ・コネチカット州)所蔵。 真珠湾攻撃の後、オアフ島に流れ着いた甲標的、1941年12月。解体調査の後組み立てられ、東條の葉巻の名で国債を売るのに利用された。 キスカ島の防衛のため配備された特殊潜航艇。戦闘に加わることなく、撤退作戦時に放棄されてアメリカ軍が鹵獲した。 甲標的(こうひょうてき)は、大日帝国海軍(日海軍)において最初に開発された特殊潜航艇である。兵装として魚雷2を艦首に装備し、鉛蓄電池によって行動する小型の潜航艇であったが、後に発電用のディーゼルエンジンを装備し、ディーゼル・エレクトリック方式となった。開発当初は洋上襲撃を企図

    甲標的 - Wikipedia
    kiyo_hiko
    kiyo_hiko 2015/05/06
    "横尾敬義予備役海軍大佐の提案した「魚雷肉攻案」があった。これは魚雷に人間が乗って誘導し、確実に命中させるというものであった。この提案は課員の強い興味を集めた" 肉の使用方法
  • 【歴史事件簿】パールハーバーの誤算(1) 日米はなぜ開戦に至ったのか…米も欲した満鉄利権、確執は満州でのすれ違いから始まった(1/4ページ)

    今から74年前の昭和16年12月8日、旧日軍はハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃し、太平洋を舞台にしたアメリカとの戦いに突入する。当時、アメリカの生産力が日の10~20倍もあったため日の軍部の中にも対米戦に消極的な声もあったのだが、なぜ踏み切らなければならなかったのか。その原因は、真珠湾攻撃の36年前に日露戦争の講和を仲介したアメリカとのすれ違いから始まっていた。 ターゲットは満州 明治33(1900)年6月、欧州列国が相次いで清国に進出する中、山東省で起きた排外運動「義和団の乱」がまたたく間に北京へと拡大していった。 このため日など8カ国が現地に住む自国民保護を目的に軍隊を出して乱を鎮めたまではよかったが、各国は兵を引き揚げさせたのに対しロシアは兵を満州に送り込んできた。 そんなロシアに強い危機感を持ったのが日アメリカだった。 南北戦争後、欧州にならい支配力を広げたいア

    【歴史事件簿】パールハーバーの誤算(1) 日米はなぜ開戦に至ったのか…米も欲した満鉄利権、確執は満州でのすれ違いから始まった(1/4ページ)
  • 【海外の反応】 パンドラの憂鬱 海外「日本デカ過ぎだろ」 大戦中の世界の領土の変遷が分かる地図動画

    今回は第二次世界大戦中の領土の変遷を観た外国人の反応です。 第二次世界大戦には世界の61カ国が参戦。 総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、 主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に (ちなみにアメリカ3410億ドルで日は560億ドル)。 被害者数の総計は、軍人・民間人合わせて5000万〜8000万人とされており、 これは当時の世界の人口の2.5%以上にものぼります (民間人の被害者数:3800万〜5500万。軍人の被害者数:2200万〜2500万)。 動画では、人類史上最大となったこの戦争が始まった1939年9月1日から、 戦争が終結するまでの世界の領土の1日ごとの変遷が紹介されています。 映像を観た外国人からは、様々な反応が寄せられていました。 World War II in Europe and the Pacific: Every Day ■ たった3カ国が短期間であ

    【海外の反応】 パンドラの憂鬱 海外「日本デカ過ぎだろ」 大戦中の世界の領土の変遷が分かる地図動画
    kiyo_hiko
    kiyo_hiko 2015/03/09
    ドイツがソ連のラブコールに応えて日独ソ伊四国同盟を結べてたらもっと上手くやれたのにな残念だ
  • ハルノート全文|目覚めつつある本質

    目覚めつつある歴史政治・憲法・経済などについて書いています。 ブログトップ 記事一覧 画像一覧 « 西田昌司 中山恭子・・・ 消費者物価指数 2・・・ » ハルノート全文 2013-11-29 19:19:55 テーマ:歴史 ブログランキングに参加しています。 (モバイルからは投票不可) 人気ブログランキングへ 1941年11月26日日側の甲案乙案の返答として、アメリカから届いたハルノートがきっかけとなり、ついに大日帝国とアメリカ合衆国の戦争が始まります。 このハルノートはソ連のスパイであったアメリカ財務省高官のハリー・デクスター・ホワイトによって書かれ、それをヘンリー・モウゲンソー財務長官がハル国務長官に渡し、日側に最後通牒として送りました。 12月1日御前会議において、避戦派であった下記の閣僚もこの通牒を見て、ついに対米開戦の決意を固めました。東條英機総理大臣東郷茂徳外務

    ハルノート全文|目覚めつつある本質
  • 【WW2】硫黄島の戦い 昭和20年(1945年) 【日本語字幕付き】