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歴史と災害に関するzyugemのブックマーク (3)

  • 島原大変肥後迷惑 - Wikipedia

    島原大変大地図 [注 1] 島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)とは、江戸時代の1792年5月21日(寛政4年4月1日)に肥前国島原(現在の長崎県)で発生した雲仙岳の火山性地震およびその後の眉山の山体崩壊(島原大変)と、それに起因する津波が島原や対岸の肥後国(現在の熊県)を襲ったこと(肥後迷惑)による災害である。 犠牲者は約1万5000人に達し、日史上最大規模の火山災害となった。新月の夜かつ大潮であったことで大きな被害になったとされる[1][2]。シミュレーションによれば、山体崩壊開始から終了までは 180秒程度と想定された[2]。 推移[編集] 第一段階(前駆地震群)[2] 1791年(寛政3年)11月頃から、雲仙岳西側で有感地震が多発[3]。震源が徐々に普賢岳に向かっていった。 第二段階(普賢祠前の噴火-新焼溶岩の流出)[2] 1792年2月10日(寛政4年1月18日)

    島原大変肥後迷惑 - Wikipedia
  • 信濃毎日新聞[信毎web] 平安時代の佐久地方に国内史上最大規模の天然ダム

    平安時代に現在の南佐久郡小海町一帯で発生した山体崩落で千曲川がせき止められてできた天然ダムの規模が、国内史上で最大規模だった、とする研究成果を県内外の専門家がまとめ、26〜28日に長野市で開く砂防学会で発表する。天然ダムの湛水(たんすい)量は黒部ダム(富山県)の約2・9倍にあたり、天然ダムはその後決壊して、東北信一帯が大きな水害に見舞われたと説明。専門家によると、同町内などにいまも点在している巨大な岩はダム決壊で運ばれたとみられる。同郡内の「小海」などの地名も、天然ダムと関係がある可能性が高いという。 研究をまとめたのは、砂防フロンティア整備推進機構(東京)の井上公夫技師長や県埋蔵文化財センター(長野市)の川崎保調査研究員ら。 一帯の山体崩落については、元信大教育学部教授の故河内晋平氏の研究で、887(仁和3)年に八ケ岳北部で山が崩壊して一気に崩れる「岩屑(がんせつ)なだれ」が発生し、

  • 第9回 王滝村災害復旧

    《御嶽山の麓があたる傾斜の地勢に倚り,王滝川に臨み,里宮の神職と行者の宿とを兼ねたような禰宜の古い家が,この半蔵等を待っていた。・・・王滝は殊に夜の感じが深い。暗い谷底の方に燈火の泄れる民家・・・すべてがひっそりとしていた》 木曽路はすべて山の中である・・・に始まる島崎藤村の小説『夜明け前』の一節である。 王滝村は中山道の宿場町・木曽福島町から西へ約25km。王滝川沿いの県道に車を走らせなければならない。行く手には際限ない山の連なりが見える。木曽はまさに山の中,そんな思いを強くする。 三岳村中心部を抜け,牧尾ダムサイトを過ぎ,御岳湖を左手に見ながら緑陰の道をしばらく走ると,道は大きく右にカーブする。突然視界に幾何学模様の法枠壁が飛び込んできた。多くは緑に覆われているが,その斜面高は400m,幅は700mにも及ぶ。 道はその下を左に回りこんで,王滝村中心部に通じている。法枠壁の上部に見えるガ

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