某スレッドがヒステリー状態になっているように見えるので、いくつか指針を。 1;議員は原則として味方にしなくてはならない。前回我々の味方をしてくださった議員へ、敵対視したメールは、送らない方がむしろマシである。 2;条文の抱える問題点を、「関心のない第三者が読んで判りやすい」ものとして纏める必要がある。議員が我々に求めるものの一つはそれである。[11/25 00:25] 追記。そのために、まず、我々は、条文を自力で読まなければならない。 http://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/%E9%83%BD%E6%9D%A1%E4%BE%8B%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88%E6%AF%94%E8%BC%83%EF%BC%88%E5%85%A816%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%EF%BC%89.pdf 3;「罵りたい」と
この「教育基本法「改正」反対」という見出しを使うのは久しぶりです。 かつて政府が教育基本法を改正しようとした時、私はこのブログでも改正に反対であることを表明しました。 実を言うと、これを書いている2009年現在での私は、教育基本法改正に賛成の立場にあります。2006年12月に同法が改正されて以来、現行法は再改正されるべきだと考えているからです。旧法に戻せではなく、再改正を言うのは、旧法は現行法にくらべれば格段に優れたものではあったけれども、それでもどこにも問題がないかというとそうでもなかった。だから、可能であれば、公教育の理念法として、よりマシな方向に向けて再改正すべきである、というのが、現在の私の考えです。もっともそう考えているのは私一人ではありません。 それはさておき、今回、[教育基本法「改正」反対]のタグを使って書き留めておこうとしているのは、その件についてではありません。 今さら足
「当事者幻想論(あるいはマイノリティーの運動における共同幻想の論理)」 豊田正弘 『現代思想』1998ー2 豊田正弘さんのホームページ「井戸端社会学」で御覧ください。 豊田さんの書かれた他の文章も読むことができます。 http://www02.u-page.so-net.or.jp/fa2/basket/ はじめに 本稿の主要な目的は、本質的に社会全体で取り組まれなければならない問題、あ るいは社会の歪みから派生している問題など、元来社会がその責務を負うべき様々 な社会問題が、社会全体の問題とされることなく、狭義の当事者性に封じ込められ ていることの現状と問題点とを明らかにすることである。 問題の本質の社会性にも関わらず、マイノリティと称される社会的少数者の問題 の多くが同様の現状にあり、この現状は深化することによって問題の本質を拡散さ せる傾向にある。例えばそれは障害者、在日韓国・朝鮮人
デモって大人数が一つの目的の為に集結しているんだよね。放置して何かのきっかけで暴徒と化したら「警察は何やっているんだ!」って怒られるじゃん?デモをやる人もそれをわかっているから、出来るだけ警察の指示にしたがって衝突が起きないようにするものだと思ったけど。あるいは、暴れるのが目的なんだったら尚更警察は抑ええつけようとするだろうし。 デモの目的ってなんなんだろう。それが反体制であれば、秩序の維持を責務とする警察が抑えにいって当然だし、みんなで主張しましょう!ってだけなら指示に従えばいいし、タダでさえサミットで警備が大変なところに、わざわざデモの為に人を裂かなければならなくなったらそりゃ出来ることも限られるでしょう。 「G8サミット反対」みたいな内容のないシュプレヒコールを聞かされるだけでもうんざりだと思うんだけど。 もっとちゃんと指示に従って、平和にデモをすればいいじゃない。それに逆らいたいん
〈一〉 先日、当ログで連日続いてきた釜ヶ崎暴動に言及した。すると次のようなコメントが寄せられた。 どんな理由や理想があっても、暴力に頼れば社会から「悪」と看做される。 それならばあえていう。我々は時に「悪」の烙印を引き受けなければならない。 それならばあえて問う。「暴力」とは何であるのか。 そもそも、警察による私刑の執行への反撃を「暴力」として審判することは、力のありようを「暴力」と「非暴力」とに、つまり二元のものとして切断することにほかならない。では、「暴力」から切り離された「非暴力」とはいったい何であるのか。単に、力を行使しないことが「非暴力」なのか。違う。「非暴力」もまた「暴力」同様、ある力の行使にほかならない。力とは「暴力」であり「非暴力」である。それは人が立つ位置によって変位するものである。西成署からすれば、暴動は即ち「暴力」であるだろう。しかし暴動主体にしてみれば、「暴力」も「
[追記] 8/22 12:00現在、膨大なコメント数の影響で新規コメントが表示されなくなっています(いつからかは分りません)。暫定措置として、コメント用のエントリを立てました。コメントされる方はこちらをご確認下さい。 [8/21 19:00追記] 以下の内容に関して、色々と調べていく中で僕が認識していた事実と相違する部分や別の証言が出てきています。今現在での判断は保留させて頂きます。僕は粛々と事実確認を進めます。 コミケ襲撃犯は第一日目の段階で既に現行犯で確保、事態は既に解決済み : 週刊オブイェクト 6・30アキハバラ解放デモ主催によるコミケテロ まとめ - アットウィキ さてさて。事実関係を全て把握しているわけではないのですが、それなりにコミットしていた人間としてこれは言及せざるを得ません。 とりあえず、色々調べてみて把握できた限りの情報を並べてみる。尚、これはあくまで僕が調べた情報に
痛いニュース(ノ∀`):「日本の状況はフランスよりもひどい、どうして日本の若者は反乱しないのか」 「人間の精神とは無限の希望にあふれたものだ」などという寝言戯言繰言を振りかざして恍惚に浸れるのは、抵抗の必要のない人間だけだ。 若いのだからなんとでもなる?若いのだから元気を出せ? 「抵抗は無意味だ」。若者にそう叩き込んだのはいったいどこの誰なのか。 「自己責任」を取れ? 「自己責任」を発揮しろ? この国に*1「捨てられ」た、国内棄民たる70年代生まれとして言わせてもらおう。 サイレントテロリストにとって、その結果として生み出されてしまうこの国の、この社会の経済復興こそが、最も忌むべき存在なのだ。 我と我が身を朽ち果てさせたこの国に、この社会に、何が悲しゅうて寄与せねばならないというのか? 呪うべきものを生かして何の復讐か? 「自己責任」?「自己責任」? そんなものはもうとっくに取っているさ。
盧武鉉(ノ・ムヒョン)政府発足以来、違法ストと暴力デモが絶えない。違法が常例化したと憂慮されるほどだ。違法ストと暴力デモは、国民生活に被害を与えるだけでなく、国民経済に深い傷を残している。 にもかかわらず政府は、暴力事態に生ぬるい対応をして、公権力の権威を自ら傷つけ、違法暴力の悪循環を招いた。 慶尚北道浦項(キョンサンプクト・ポハン)地域の建設労組員が火炎放射器などで武装し、ポスコ本社を9日間にわたって占拠した今回の暴力事態を契機に、違法暴力事態の再発を阻止する抜本的な対策を講じるべきだという世論が起こっている。 特に、今回の浦項事態で、政府が強力な対応をためらっている間に違法暴力が拡散し、厳正措置を宣言するとすぐに労組が解散したとことから、違法暴力を阻止するには、何よりも政府が断固とした態度で臨まなければならないという指摘が出ている。 12日、ソウル市庁前広場で開かれた「韓米FTA阻止汎
久しぶりに、たまたまTVをつけていました。 NHK教育テレビで、ETV特集をやっていました。今日のテーマは、「難民」です。 「お?」 と思いそのまま見ていると、懐かし(?)の東京入国管理局やらが出ていました。 法務省の石頭も相変わらずでしたが、明らかにNHKの立場は難民寄りでした。 本国へ強制送還されれば生命の危機すらある弱者の立場を、きちんと伝えていました。 とても好感をもてました。 難民となり自国を出る人が、パスポートや難民性を証明する書類など持っているわけがない。 (その国の政府にとっては反逆者である彼らに、そんな便宜をはかる道理がない) それを「不法」と決め付け、家族をバラバラにしてまで海外へ追い出している日本国政府は、明らかに国際法違反です。 何も「国際法」なんて持ち出さなくたって、難民を助けましょう、子どもの人権を守りましょうという、ごく当たり前の国際条約を日本は批准している
「数百人のデモ隊が竹の棒で攻撃すると、すぐに機動隊は盾で応じた。数人の警察官は血を流し…」(AFP) 「デモ隊が竹の棒で武装しバスを転覆しようとすると、(機動隊は)放水した」(AP) 韓国米自由貿易協定(FTA)阻止大規模デモが行われた12日、海外通信各社は一斉に「韓国でデモ隊と機動隊が衝突した」という見出しの記事を配信した。去年、韓国に来たフランス人のジュリアン・モレトンさん(21)は「宗教や人種問題がない国なのに、どうしてこんなに(も)デモが暴力的なのか理解できない。自殺の脅威や、鉄パイプに毎日驚きの連続だった」と話す。 ◆「反米の声に外出もままならない」 大規模デモが起きた12日、ソウルに住む外国人たちは恐怖におびえた。この日午後7時ごろ、スイス人のワルターさん(28)はソウルの光化門交差点をスイス人の友達2人と歩いていたところ災難に遭った。10人以上のデモ隊が突然集まって
歴教協編『抵抗をどう教えるか』 ぼくが出席してる自主ゼミで、ゼミが終わって会食をしている最中に、「フランスはなんであんなに共産党が大きい(大きかった)のですか」という質問が、左翼のぼくによせられました。 フランスにもフランス共産党にもくわしくないのですが、「ぼくもよく知らないのですが。ただ、レジスタンスを中心的にたたかったというので、国民の信頼は絶大だったということはあるらしいですよ」と答えておきました。質問した人は、釈然としない様子でしたけど。 その答えということではないのですが、本書を読むと、少なくともフランスでは共産党の存在なくしてレジスタンスというものがありえず、しかもそれが非常に広汎に国民に根をはって展開されていたということがわかります。 本書冒頭にある「レジスタンスの形成と展開」という愛知淑徳短大の遠藤雄久氏のなかで、たとえば次のような一文があります。 「レジスタンスの運動はす
アブナイ人たち 先日の「デモの行き方1」という記事では、まずさしあたり、私が参加した「ただ歩くだけのどうってことのないデモ(と私が思っていたところのもの)」について紹介し、デモがいかに「敷居が高くない」かを訴えるつもりでした。で、2では、私が参加したことのあるいわゆるサウンドデモ系のデモのことを書いて、そっちはちょっと雰囲気が違って、おびただしい警官の数(下手するとデモ隊以上)とものものしい警備がある、というようなことも書こうと思っていました。そこでは、using_pleasureさんの言うような たしかにデモに参加すると、なんだか政治活動を行ったという「実感」を得ることができるし、満足感もあるような気はする。警官隊が間近にいるから、国家権力と直に対峙しているような気になれる。けれど、それはそれで劇場化された見世物(この場合のオーディエンスは自分自身)にすぎないように思うし、結局そこでは「
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