2005年12月04日02:16 カテゴリTaxpayerMoney 道草は死語になるのか? 校門の外の事まで学校が面倒を見るようになって久しい。 道草文庫 大石英司の代替空港: 治安という幻想今、必要なのは、日本全国の教育長や自治体の首長がテレビに出て、残念ながら私たちの社会は、最早、子供たちの安全を確保できません。どうぞお父さんお母さん、積極的に子供たちを学校まで送り迎えし、校門で先生たちと会話を交わして下さい、と呼び掛けることです。すでに私がガキの頃にも、「生活指導」と表して盛り場を巡回していたりしたものだ。そんな暇があったら少しでも授業を実りあるものにしてもらいたいものなのだが。 この手の事件が起きると、必ず「学校はどうした?」「家庭はどうした?」と、学校と家庭の責任論が飛び交う。しかし、社会はそれほど狭くないはずだ。子供にとっても。 学校と家庭以外にも世界があるのだというのは、か
下校時の学童が狙われる痛ましい事件が目立つ。新聞社説なども取り上げているのだが、スクールバスの議論があまりないのはなぜだろうかと疑問に思った。チャーリーブラウン好きの私にしてみると、学童の通学イコールスクールバスというのはアメリカだけのこととも思えない。 社説がまったくスクルールバスについて触れていないわけではない。昨日の朝日新聞社説”また女児殺害 大人が懸命に守らねば ”(参照)にはこうある。 特に細心の注意をしなくてはいけないのは下校時である。今回の女児は防犯ブザーを持っていたが、被害を防ぐことができなかった。 通学路が遠く、大人の目が届かない場合には、幼稚園や保育園で使われているような送迎バスを用意するなどの対策を取るべきだ。 保護者の視線ではなく、犯人の視線に立って、子どもたちの通学路を再点検する。そのうえで、危なそうな通学路の要所要所に大人が立つ。そうした工夫が欠かせない。 話が
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