自分以外がホメられると急に不機嫌になる 何かと対抗心が強すぎるタイプの典型的な反応に見られる特徴は、周囲の誰かがホメられたり成果をだしたりしたときに見せる不機嫌さだ。 同僚がノルマを達成し、上司からホメられ、みんなが「よかったな」「すごいじゃないか」と声をかけている傍で、不機嫌なオーラを漂わせて黙りこむ。誰でもちょっとは妬ましい思いに駆られるだろうが、ふつうは、そんな自分の醜い気持ちを恥じて抑えこみ、祝福の言葉をかけるものだ。だが、このタイプの人物は、妬ましい思いを露骨にあらわす。 同じ部課の誰かが上司に呼ばれ、「取引先の担当者がホメてたよ。なかなか気のきく人物だって」などといわれているのが聞こえると、自分が低い評価を受けたわけでもないのに、急に不機嫌モードになって、ふさぎこむ。 仲間が大きな案件を受注してきて、みんなから祝福の言葉をかけられているときに、「たいした額じゃないじゃないか」な
こちらの記事に対するGewaltさんのブックマークです → 「(すごいものをみてしまった)(慶応SFCだな)の二つの気分」
1965年、札幌生まれ。1991年、札幌医科大学医学部卒。2004年からシカゴのイリノイ大学に3年間留学。帰国後、樺沢心理学研究所を設立。「情報発信を通してメンタル疾患、自殺を予防する」をビジョンとし、YouTubeチャンネル「樺沢紫苑の樺チャンネル」やメルマガで累計50万人以上に精神医学や心理学、脳科学の知識・情報をわかりやすく伝える、「日本一アウトプットする精神科医」として活動している。 シリーズ70万部の大ベストセラーとなった『学びを結果に変えるアウトプット大全』『学び効率が最大化するインプット大全』(サンクチュアリ出版)をはじめ、16万部『読んだら忘れない読書術』(サンマーク出版)、10万部『神・時間術』(大和書房)など、30冊以上の著書がある。 ストレスフリー超大全 さまざまな環境の変化などにより、「メンタル疲れ」「人疲れ」「体調不良」などを感じる人に向けて、“ストレスフリー”に
私は「1986年分水嶺説」を唱えている。今年31歳になる「86年生まれ」と、それ以下の「86年以降生まれ」には、実は大きな違いがある。 「86年以前世代」は、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件、援助交際ブームなどを経験しており、「社会は5〜7年ごとにガラリと変わる」という感覚を持つ。 他方「86年以降世代」は「社会はこのままずっと続く」という感覚を持つ。彼らが思春期を迎える97年頃から、日本社会は「平成不況」が深刻化、以降の変化が乏しくなった。だから「どうせ何も変わらないのであれば、周りに合わせるしかない」という構えになりやすい。 世代はクリアカットに区切れないので、同じ傾向が30代前半から見られる。いずれにせよ先行世代は、若者の「劣化」を認識したほうがいい。具体的に説明しよう。 なぜ性体験のない若者が増えたか 「86年以降世代」は、物心がついたときからネットのコミュニケーションに依存する
クレーム対応「完全撃退」マニュアル 100業種・5000件以上のクレームを解決してきたクレーム対応の超プロ直伝! モンスタークレーマーの”終わりなき要求”を完全に断ち切る奥義、全公開! 担当者の悩みに18年間寄り添い続けた、「心が折れない」話術と技術。 バックナンバー一覧 100業種・5000件以上のクレームを解決し、NHK「ニュースウオッチ9」、日本テレビ系「news every.」などでも引っ張りだこの株式会社エンゴシステム代表取締役の援川聡氏。近年増え続けるモンスタークレーマーの「終わりなき要求」を断ち切る技術を余すところなく公開した新刊『対面・電話・メールまで クレーム対応「完全撃退」マニュアル』に各業界から需要が殺到し、現在3万5000部超と異例のロングセラーになっている。 本記事では、クレーム対応を長引かせてしまう原因となる「ある言葉」を、具体例とともに特別掲載する。(構成:今
万能感に支配され議論する人々 最近、SNSなどにおける議論の不毛さと破壊性が指摘されている。 問題となるコミュニケーションでは、基本的に、相手の語っていることを正確に理解しようという意欲に欠けている。 熱心になるのは、相手の発言について「傷つく」何らかの存在を探すことだ。 あるいは、その発言の公共の利益を損なう面を指摘すること。相手の語る行為が非道徳的であることを示し、その語られた言葉、あるいは語った人をコミュニケーションの空間から排除すること、少なくとも信用のできない人物として印象づけることで、その影響力を削ぐことにコミュニケーションの努力のほとんどが傾けられる。 ここでは、双方が持ち寄ったロジックを戦わせることで、そのどちらもが洗練されていくことは起きえない。弁証法的な議論の展開はあり得ないのだ。 その代わりに、ただ痛めつけ合うだけの結果になることも、しばしばである。私が見るところ、そ
素焼きテラコッタの埴輪 @gecpyteracotta オッサンがバグるという表現すごく的確、タメ口で話しかけてきた知らないオッサンにタメ口で返すとオッサンはほぼ確実にバグる 先日旅行中見知らぬオッサンに「シャッター押してくれる?」と言われたから「いいよ、カメラ貸して」と返したら心底不愉快そうな顔をされた、快諾してるのに何が不満なんだ 2018-09-22 01:23:10
断れない方必見!壊れたレコード・テクニックどうしても断りたい予定や勧誘の電話が断れないという悩みを持っていらっしゃる方に、どうして上手く断れないのかの理由を考え、「壊れたレコード・テクニック」と呼ばれる考え方で克服していく方法をご紹介します。 どうしても断りたい予定や勧誘の電話の際に、どのように断っていますか?次の例のような場面に心当たりがある方も多いかもしれません。社会人野球の試合に誘われたAさんとその同僚の会話です。 同僚:「今度の土曜日に、社会人野球の試合があるんだけど、人数が足りないんだよ。お前もなんとか都合つけてこれない?」 Aさん:「その日は、外せない用事があるから、行けないんだ」 同僚:「用事って何の用事なの?」 Aさん:「家の倉庫を片付けないといけなくて…」 同僚:「そんな用事だったら、いつでもできるでしょ。じゃあ、試合にでれるよね」 Aさん:「いや…倉庫が結構大きくてさ。
さて新しいクリニックもスタートしたことであるし、私は一人のジャイアンとして自己を振り返る作業に戻ろう。 私はADHDは個体認識の学習障害であると考えている。特定の名前を持った「**さんとの関係」という関係自体を認識できない。(顔や名前を覚えられないのはその一部だ)。 「無差別、平等、公平、偏見が無い」という特徴はADHDのむしろ良い面であるが、実はこれは「個体認識が出来ないから抽象的な人間対人間の関係になる」というまさに障害そのものの結果なのだ。 私は以前「ジャイアンは人を必要としない」と書いた。実際例えば「筏に乗っていて川下に滝があることを教えられるのを拒否する」ような自己決定権への強いこだわりがあり、逆に変に「人を必要とする」時は病的な依存になっていることの方が多い。 それから私はずっと、ではADHDは「世界にぽつんとただ一人」で他者との関わりの意味は全く無いのか?、他者との関わりの中
私はジャイアンなので、基本的には「来る者拒まず」で、だから原則的にこれまでコメントの制限もしない方針できた。 しかし最近このブログ上が世間の中で唯一「ジャイアンの当事者同士が率直に語り合える場」になってきて、特に受動型ASの人からのコメントがその「場」に大きな妨げになることが分かってきた。 私は管理責任者として、またジャイアンの生きる困難さを理解するものとして、「この場を守る」必要性を痛感している。 (正直ASの人の受け取り方まで私が配慮することの限界を感じていて、時間的にも労力的にも精神的にも負担が大きくなっている)。 そういうわけで、以下のいくつかの方針を検討中である。 ①スレッドによっては「RASコメント」、「ASコメント禁」ということにする。 ②このブログは原則としてジャイアンを優先として、今後はASに対する配慮は基本的にせず、AS側からのコメントはジャイアンから見て有用と判断され
ASはプロセスを求める。ADHDは結果しか興味がない。 特に積極奇異型AS-依存型ジャイアンカップルでは、AS側が辛い。AS的に愛着の対象に対して一貫した何かを求めるほど、依存型ジャイアンの場当たり的な「自分の無さ」に絶望的に苦しむだろう。 ASは「愛着の対象が自分を理解できない」ことを想像も出来ない。第一感、「自分を100パーセント分かってくれていることは当たり前」 ということになる。だから少しでも「理解されていない」ことがあるとひどくショックを受けることになる。 対して依存型ジャイアンは、場当たり的にその場その場の相手に合わせているだけで、一貫した自分の考えも無く、結局責任も負えない。ただ「非言語的な表面的なその場だけのフォロー」は得意なので、積極奇異型ASやジャイアンが引っかかる。 依存型ジャイアンこそ、「究極の結果主義」だ。「相手が怒り出さなければ良い」 「利用できる関係を維持でき
私のブログを見て、「頭では理解できたが、自分がダメに思えてきた」という複数のASの人の感想があり、少し考えた。 これも「関連付けのし過ぎ」の結果だと思うが、「ASの人は***だ」と書くと、「ASの人だけが***で、他の人は全て***ではない」という意味にASの人は受け取っているように思う。 例えば「ASの認知のゆがみ」と書くと、もともとの意味は「ASの人は認知のゆがみがあることがある。(他の人についてはあるとも無いとも言ってない)」 という意味であるのに、「世の中でASだけがどうしようもなく認知がひん曲がっていてまともにものを見ることも出来ない」という風に非常に極端に(感情的に)受け取っているのではないかと私は想像する。当たり前だがこの二つは全く違うことだ。 このあたりも、「可能性が即必然性に飛躍する」というAS独特の認知の特徴のせいかもしれない。 その意味では、「認知のゆがみが無い人はい
AS(アスペルガー症候群)の人の思考の特徴はどこまでもディーテイル(細部)へ精密になっていくことだ。その結果話が異常に長くなってしまい、全体で何を言いたいか分かりにくくなってしまう。そのせいで「ただ言いがかりをつけようとしている」と不当に誤解されることも多い。 だからASの人の話をきくときは、「細部の話を一つ一つをまず独立の話として聞く」ように聞くとうまく行く。全体で何かを言おうとしていると読むと誤解になることが多い。 対してADHDの思考は総合へ向かう。「そもそもこのプロジェクトの目的は何か」とか、「トップ(最高責任者)がどう考えているか、どういう方針であるか」が非常に重要になってくる。 だからADHDの話は要約が可能なのだが、話題が飛んでしまうので話が長くなる。聞くときは「要するにどういうこと?」と聞けばすぐに答えが出る。 ASとADHDの思考はこんなに違う。だから普通に話が通じると考
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