強すぎる「いい人」欲求は自分の人生を追い詰める 私は2つの会社を経営していますが、いずれの会社もオフィスはもたず、従業員も雇わず、提携と外注だけで事業を運営しています。物理的にいらないということもあるのですが、「自由」な生き方をしたい、という思いが強いからでもあります。 自由とは何かというと、私は「物理的自由」と「精神的自由」とで構成されていると考えています。 物理的自由とは、「複数の選択肢から選べること」。複数の選択肢を得るためのひとつの方法は、おカネを稼ぐ力を高めることです。そういう意味もあり、私はこれまでもおカネに関する書籍をいくつか書いてきました。 そしてもうひとつの大切な要素が「精神的自由」です。これは「自分の感情が、他人からの影響や制約を受けないこと」を意味します。 精神的自由を得るためのひとつの方法が「いい人」をやめることです。いい人とは、他人の目を気にして、人から嫌われない
(コメントされる方へ 「批評」はご遠慮ください。例えばASからADHDを想像することは非常に困難であり、ここでは主にジャイアンの本人の自己分析を突き合わせながらかなり微妙なジャイアンの心理の分析を深めて行きたいと考えています。 コメントされる方は自分自身か、あるいは明らかにジャイアンだろうと思われる特定の人の実際の発言であるとか、行動などの実体験に基づくコメントをお願いします。遠い対岸からの「批評」は論点をそらすことにしかなりません。) 私はADHDであるので、私の中の自己突っ込みは、徹底して合理的な部分がある。その部分は私のジャイアン的な自己中で醜いエゴイストの部分に絶えず突っ込みを続け、逆にジャイアン的な部分は優位に立てないことに対して突っ込み続ける。 ADHDとして合理的であることと、ジャイアン的にエゴイストであることは根本的に矛盾していて、この矛盾がジャイ
私はかなり努力しているが、やはりジャイアンであり、ジャイアンならではの弱さもみっともなさも当たり前に持っている。 某大手の掲示板での私に関連した(私は何も知らない)トラブルも、親切に教えていただいているのに、見るとカッとして感情のコントロールが困難になる可能性を想定して実は自分では見られないでいる。(表面上は「ばかばかしい」などと見栄っ張りな嘘を言っているが) 例えば免許の切り替えで「違反者講習」が来ても、落ち込む気持ちがどうしても生じてしまう。 要はジャイアンは醜い存在なのだ。そしてそれを合理的な部分は許せないのだ。 こういう「否定的評価」に対して、ジャイアンは「うつになる」ことがある。私も一時「体が重いとはこんなことか」という感じがして、危ない危ないと思い直した。 「思い直す」方向は、実にうつ病の認知療法の正反対な方向だ。 「そもそも自分を高い所に前提しているから落ち込むことになる」
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