得しないし、そもそもこの二つは対立を避けられないものじゃないと思う。 オタ趣味と恋愛の両立なんて普通にできる。実際、知人にオタカップルやオタ夫婦が何組も存在するし。 あるオタ夫婦の夫が言っていたことは印象的だった。 「二次元を引き合いに出して三次元を批判するのは、二次元好きのすることじゃない。二次元を、三次元を叩く材料にしてる。」 私の学生時代からのオタ友達で、昔から「○○(キャラ名)大好き~」と、好きなキャラへの愛を叫ぶだけだった子は、 比較的スムーズに彼氏を作ってた(相手はオタだったり非オタだったりした)。 逆に、キャラを愛しつつも、「××(クラスの男子)まじありえない」とか、「三次とか無理~」みたいに、 キャラと身近な男子を比較して、嗤ったり叩いたりしてたような子は、大人になってもオタ女をこじらせっぱなしでみんな独身。 後者みたいな、"三次下げ"のために二次を使うような子は、本当に二
初音ミクへの思いこそ「究極の愛」か 現代の恋愛、人気作家など議論:ORF 2010(1/2 ページ) 「若者はコストパフォーマンスで恋愛を考えている」「初音ミクへの思いこそ、究極の恋かもしれない」――濱野智史さん、平野啓一郎さん、櫻井圭記さんが現代の「恋愛のアーキテクチャ」を語った。 恋愛への興味が薄い、「草食化」した男性が増えていると言われる。初音ミクなど2次元キャラを“俺の嫁”と愛したり、「ラブプラス」があれば現実の恋人はいらないと豪語する男性もいる。 ネット社会の進展で、「恋愛のアーキテクチャ」は変わったのか――社会学者の濱野智史さん、小説家の平野啓一郎さん、「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」などで知られる脚本家の櫻井圭記さんがこのほど、都内で開かれた慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)のイベント「Open Research Forum 2010」のセッション
秒速5センチメートル [Blu-ray] 出版社/メーカー: コミックス・ウェーブ・フィルム発売日: 2008/04/18メディア: Blu-ray購入: 11人 クリック: 679回この商品を含むブログ (162件) を見る 二次元の美少女キャラクターに初恋しちゃった人って、どうなっちゃうんだろう?結構難しくありませんか?というのが今回のエントリの主旨です。 初恋は、異性への思い込み・幻想から醒めるたいせつな機会 第二次性徴を迎えて間もなく、初恋って、あるじゃないですか。これが例えばクラスメートの女子とかが対象だったら、仮に恋仲になれたとしても、進学したら距離が離れていくだとか、喧嘩したり幻滅したりして…とにかく、夢から醒めていく機会が幾らでもあります。片思いで終わった場合も、好きだった女子に二年ぶりに会ったらケバい化粧をしていて幻想が一発で吹っ飛んだとか、いずれにしても、初恋特有の思い
<12/17の予定>(注)時間は日本時間 【国内】12月のQUICK月次調査<外為>(8:00)企業の物価見通し(日銀、12月短観分、8:50)国際決済銀行(BIS)国際資金取引統計および国際与信統計の日本分集計結果(2018年9月末)(日銀、8:50)11月の首都圏・近畿圏のマンション市場動向(不動産経済研究所、13:00)中西経団連会長の記者会見(15:30)清田日本取引所CEOの記者会見(15:30)ジャスダック上場=グッドライフカンパニー、ツクイスタッフ【海外】10月のユーロ圏貿易収支(19:00)11月のユーロ圏消費者物価指数(HICP)改定値(19:00)12月のニューヨーク連銀製造業景況指数(22:30)12月の全米住宅建設業協会(NAHB)住宅市場指数(18日0:00)10月の対米証券投資(18日6:00)南アフリカ市場が休場 〔日経QUICKニュース(NQN)〕 <12/
君が望む永遠 ~Rumbling hearts~(通常版) 出版社/メーカー: プリンセスソフト発売日: 2003/05/01メディア: Video Game クリック: 38回この商品を含むブログ (15件) を見る 一人のヒロインを選ぶ尊さは、他のヒロインを捨ててこそ保たれる筈なのに。 例えば、十年以上前のPC-98版『同級生2』は、その自由度の高さも手伝って、どのヒロインを選び、どのヒロインを選ばないのかの自由がプレイヤーにほぼ完全に任されていた。その気になれば、二股、三股をかけることだって出来たし、特定の一人を一途に追いかけることも可能だった。しかし二股以上が成立していたとしても、最終日には必ず一人のヒロインを選択し、他のヒロインを“振らなければならなかった”。 一人のヒロインを選ぶ以上は、他のヒロインは捨てなければならない。 このシステムは、一人のヒロインを選ぶという事の意味や尊
アイドル愛を擬似恋愛と捉える方は、上記エントリの①のような相対化する視点を持つヲタではなく、まさにベタにアイドルに恋愛をしてしまっている人間をこそ念頭に置いているかもしれない。 アイドルとアイドルオタクが幸せな関係を築く方法(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080913/1221280617) 上記エントリにおいては、「擬似恋愛」と「ほんとうの恋愛感情」とが区別されているが、そんなことはどうでもよい。ともかくも、ベタにのみ対象に耽溺しているヲタを考えた時、「アイドルオタクたちが、本当の意味で幸せになれること。ぼくが野球や小説に感じたような幸せを、アイドルオタクたちもアイドルに対して感じられること。そうして、死にたくなるようなショックを受けるといったことは、絶対に回避すること――」という問題意識を上記エントリの筆者は書き記す。そして結論としてアイドルの恋愛
自動的に移動しない場合はをクリックしてください。
こういうのがいるから「オタクは妄想と現実の区別がつかない」とかいまだに言われるんだよ。http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20080713/p1二次元も三次元もいけるという私の目からみても、“どれだけ理想の異性を想像のなかで楽しめるのか”に関する限り、三次元の女性達は最近の二次元の美少女キャラクターに敵わない、と思う。自分の言ってる事の異常さに気づいているか?それは人前(ネット上)で高らかに主張することか?とても「二次元も三次元もいける」人の発言とは思えん。世の中いろんな趣味の人がいるから楽しいし、俺だって脳内じゃ世間様から白眼視される妄想はする。けど、それを軽々しく口にしないのは‘言ったらヤヴェえよな’って感覚があるからだ。だからそういうのは昔から「秘め事」とかって言うんじゃないのか? 1990年代の美少女キャラクター達となると、キャラクターにはまだかなり
ポルノコンテンツとか風俗関係のサービスは、基本的にセックスするまでの信頼関係を結ぶプロセスをすっ飛ばしたものなのは確かだ。 幼馴染とかメイドのように最初から一定の好意が期待されているような関係が男性向けのコミック・ゲームに多いのも事実だろう。 そりゃホストクラブだとか執事カフェだとか女性向けのそういったプロセスをすっ飛ばしたものも存在はする。ただ、全体としては男性向けのものの方が圧倒的に多い(需要度が高い)ので、女性向けにもそういうものはあるといって相対化をしてみせるのはさして意味がない。 ポルノコンテンツじゃない映画なり小説なりドラマなりだと、プロセスの部分もきちんと描いてあることが多い。 そういうものを鑑賞していれば普通はそうはバランスの悪い考え方にはならないのではないかと思う。 しかし、昨今の思春期の少年には、そういった映画なり小説なりドラマなり、ヘタしたら少年向けの少年漫画であって
恋愛というロジックにおいては、自らがまず「選別可能な選択肢」になることが大前提となっている。 つまり、「交換可能な存在」にならなければ、「交換の輪」に入ることができないという仕組みだ。 それはまずいいとしよう、だが問題は次である。 「交換可能な存在」であるということは、つまり「代替可能な存在」であるということである。 自分であろうと他人であろうと、また他人であろうと自分であろうと、そこにはなんらの質的な差異、価値的な差異が存在しないということである。 いったい維持すべき恋愛関係などあるのだろうか? そもそもが「誰でもいい」ものなのである。 にもかかわらず、「誰かでなければならない」という。 「交換可能な存在」であることが大前提である以上、いったい何が、何を、どうやって「楽しむ?」というのだろうか。 まったく理解できない。 ――「恋愛の不可解なオキテ」 理解できる。 山本弘のSF小説『サイバ
NHK教育中学生日記■行事予定 5月19日(土) 「腐女子だって恋をする(仮)」 今ならまだ間に合うので教えてあげます。絶対に腐女子は恋なんてしません。間違った内容を天下のNHKで放送させるわけにはいきませぬ。今すぐ指摘のメールを送ろう、電話をかけよう!早朝だけど! orz まぁうちの家族は見ないんですけどね。それだけが救いなんですけどね。それでも鬱です……。 そういえば前にもありました。2005年10月の「恋に燃え、アニメに萌え」。 古川愛李(あいり)は、家が隣で幼なじみの長谷川未来(みらい)に恋をしている。未来は生徒会長を務める優等生で、学校でも人気者だ。愛李は未来が大好きという気持ちをどうしても伝えられない。それは、バリバリのアニメオタクだから。自分がアニメオタクだとばれたら嫌われる!そう思うと、今日も見つめることしか出来ない。ある日の授業中、未来が「萌えキャラTシャツ」を着ているこ
たけくまメモ: 俺と萌え(番外)フェチと萌えは違う? 斎藤環の場合 斎藤環は、フェチの萌えの違いを、実在物と虚構物の違いだとする。 フェチは切手や鉄道のように実在し、萌えはキャラのように虚構だ。 そしてまた、虚構が性的対象になりうるのが、オタクであるという。 東浩紀の場合 東浩紀は、萌えをデータベース消費と関連付ける。 即ち異なる作品で使用できる二次創作の可能性だ。 動画の萌え要素は、再利用が難しく、流通しない。 萌え理論の場合 萌えは萌え空間、即ち可能世界を開く。対してフェチは、現実世界に留まる。 靴など何らかの素材感が好きであっても、それは単に事実として好きなのだ。 萌え理論における可能世界論は、斎藤と東の論のハイブリッドになっている。 このキャラがこのストーリーでこの絵師が書いてこのシチュエーションで…、 という動的な生成が、萌えでは可能だ。フェチの遷移は、静的なものである。 Aja
甘詰留太『年上ノ彼女』をダシにした一論 どうも、叱られたようである。 doolittleさんのサイト「アンビエンス」にて。 ぼくが書いた『恋風』の感想への批判だ。 勝手に要約するに、2005年1月27日日記でのdoolittleさんの立論は、次のようなものである。 (イ)江戸時代は肉欲だけ求めた時代で、明治の人もそれをひきついだ。 (ロ)そこ(明治時代=近代)に、肉欲を悪とする社会的規制が登場。その社会的規制ゆえに、二人が密かに会うという恋愛は秘め事となる。 (ハ)秘め事となった二人の逢瀬は、恋愛の精神性を高める契機となり、それが近代的自我の発祥である。 (ニ)このようにして近代的自我のもとで高められた恋愛の精神性を、いっそう強固にするものとしてセックスは存在する。セックスは、社会が規制を設け賤視するような汚らわしいものではない。セックスは獣欲ではなく愛情表現となる。 (ホ)透谷の恋愛至上
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く