はじめまして。 いつも辛辣な言い回しが好きで更新が待ち遠しいです。 私は結婚して2年なのですが、友人夫婦の発言が気になりました。 夫婦生活に飽きた、と。 夫婦というものは長く一緒にいれば飽きるものなのでしょうか。 一緒にいたいから夫婦になったのに、飽きるということは生活そのものが飽きるという意味になるのでしょうか。 夫婦とはなんなのかわからなくなりました。 飽きることにきっかけなどあるのでしょうか。 あおいさんのお話を聞けるとうれしいでっす。 多くの既婚者が言っていることなのですが 結婚をしてよかったなと思うことって 『もう恋愛をしなくていい』ということなんですよね 若い人はとくに恋愛至上主義だったりするのですが 恋愛って入り口に過ぎないもので それは消耗品であり必ず終わりのあるものなんです 一生恋愛をしたいのなら同じ相手では無理 恋愛至上主義である以上 取っ替え引っ替え相手を変えなければ
女性よりも男性の方が、惚れっぽい性質を持っています。その理由のひとつが「好意(Like)と恋心(Love)に対する認識の違い」です。どういうことなのか、“恋心”にあって“好意”には無い要素と併せてご紹介します。 女性よりも男性の方が、惚れっぽい性質を持っています。 その理由のひとつが、好意(Like)と恋心(Love)に対する認識の違いです。 男性は『好意(Like)≒恋心(Love)』と考える傾向があります。 そのため、女性に好意を示されると「ん?俺に気があるのかも」なんて考えてしまうわけです。 一方、女性は『好意(Like)≠恋心(Love)』と考える傾向があります。 女性が男性に好意を示したとしても、そこに必ずしも恋心があるわけではないのです。 男性は“好意(Like)”と“恋心(Love)”を近いものと認識しているのに対し、女性は“好意(Like)”と”恋心(Love)”を明確に分
■その人は、みんなから「すごくいい人」だと言われている ■しかし、わたしはその人から心理的暴力などで痛めつけられてきた ■そのことを周りに訴えても、だれも信じてくれず、かえってその人の味方をする ■その人はまったく家庭を顧みず、配偶者や子どもを物としか思っていない ■平気で浮気をして、いつ家にかえってくるかもわからない ■罪悪感や良心のかけらもない あなたの身近に、このような人がいますか? もちろん判断には慎重になるべきですが、その人はもしかすると「サイコパス」と呼ばれる種類の人かもしれません。 サイコパスというと、テレビなどのメディアでは、連続殺人犯や精神異常者のように描かれがちです。 しかしその実態はまったく異なります。サイコパスは「いい人」という評判を得ていて、正義感があり、良識ある人とみなされていることさえあります。だからこそ、彼らに苦しめられている人が訴え出ても、だれもそれを信じ
言いにくい話だからあまり言わないようにしてきたが…正直なところ、躁うつ病になってからというもの性的衝動がすごく強い時がある。これは僕個人もそうだし、躁うつ病の兆候の一つとして性欲が乱高下する…という現象は実際に起こる。 本当に性欲が強い人、下ネタが好きな人もいるため、周りから見ている分には意識されにくいことだが…男女問わず、妙に性欲が強くて近くに異性がいると甘えたがることが…ある。いや、経験したことがある。 病んでる人同士が病んでる時に一緒にお酒なんぞ飲んだ日には本当に何が起こってもおかしくない。いい意味でも悪い意味でも距離が密接になる。行為とか合意とかそんな理由ではなく、本能的で衝動的に頭と体が一致しない形でお互いがお互いに依存したり、甘えたり…という現象が起きる。 「なぜこんなめんどくさいことを書くか」だが、それはこの記事が出回っているからだ。 風俗をやめた話 要約すると「風俗通いして
私はこれまでADHDは人を必要としない。人に愛着しないグループをADHDとしてASと区別すると考えてきた。 しかしジャイアン(自己正当化型ADHD)という不思議な(自分もながら)ADHDのグループを考えると、「直系親族への執着」とも言える現象が実際に観察されることが多い。 例えばマザコンのジャイアンは実は多い。女性のジャイアンは長男と娘に依存的(かつ支配的)になる。このあたりは表面上ASの場合に非常に似ているのだ。不思議なのパートナーにはむしろ執着しないように見えることが多いことだ。 ただこの「直系親族への執着」をAS特有の絶対的な愛着とよくよく比較すると、質的にはかなり違うものであると私は思う。ジャイアンの執着はほとんど直系親族だけであるのに対し、ASの場合はパートナーに強い愛着が見られる。 また、ジャイアンの執着は「相手がどう思っているかにお構いなく」であり、「世間体を気にする」、「お
私はADHDである。ADHDの一大特徴は、「人に執着しない」ということである。小さい頃から母親が不在でもあまり泣かず、親に頼らず自分で何でもしようとする。 思春期には人とつるまず、孤立していじめにあったりする。結婚は成り行きで「ただそのとき一緒にいたい」から。夫婦冷却してもカネのためと割り切って離婚しないこともある。最終的には自分の好きなモノがあれば無人島でも平気で暮らせる。 究極の「猫的生き方」であると私は思う。オオカミ的な群れは作らず、干渉されなければ無駄な戦いもしない。来るものは拒まず去るものは追わない。体育会系の人にはさぞ自己中に見えることだろう。 愛着の対象とそれ以外の極端な差別を持つオオカミ的なアスペルガーとは対照的である。私はADHDとASの鑑別にこの特徴(人に対する執着の有無)をよく用いる。 下記に関連記事あり http://www.geocities.jp/yanbaru
さて前回まででASの自己診断(総論)は一段落として、いったん「人に対する愛着が無い」となった人の自己診断に戻る。 ここに残ったほとんどの人はADHDと分類されることになるが、この後にADHD関連で私は5つのタイプに別れると考えている。 その最初に、まずこの「ADHDグループ」には、「人を必要としない」の他、「移り気で刺激を求める」、「(まだ使えるから)物を捨てられない」、「いろいろな作業を同時進行でいくつも進めてどれも終わらない」、「納得しないと行動しない」、「臨機応変で場当たり的」、「言葉を真に受ける」などの特徴がある人が残っているはずだ。 ただ、ASのときと同様に、「二次障害として痛い目にあったから自分で多数派に合わせるようになった」ということを考える必要があり、こういう場合は上記の「ADHDらしさ」は一見目立たなくなる。これを私は「ADHDのAC」と呼ぶ。 ADHDのACとは、「自分
ASの典型的な積極奇異型や孤立型の人の表面的な特徴は、「首尾一貫して杓子定規に筋を通す」「禁欲的」というイメージだ。だからそうでないASの人は表面上ASに見えないことがある。 例えば同じ服を着続けたり、同じ道しか通らなかったり、日課の順序が決まっていたり、「後悔するくらいならはじめからするな」という考え方をしたり、(特に積極奇異と孤立型の)ASの人はもともと「こだわり」、「関連付け」、「時間認識」から「首尾一貫した」「禁欲的」という外観を呈する。 これが、例えば「最新性能や新製品にこだわる」とか、「ファッションへのこだわり」などの形で、どんどん変化していくことがこだわりの対象になることも時にはある。 また、受動型のASの人は、基本的に状況に合わせるので、他の相手や状況の場合の本人の行動との首尾一貫性はあまり本人には問題にならない。その結果外見的には「ころころ変わる」「享楽的」という風に見え
ASの人にも片づけが出来ない人が居る。結果として表面的にはいかにもADHDに似た外観となる。 例えばASの場合、自分に関心がないことに対しては「聞いていない」、「覚えていない」ことも多く、ASらしく(自分のこだわりに関連して)克明に覚えている部分との違いが非常に対照的だ。 特定のものに関心が集中するあまり、結果的に他のものへの関心が散漫になる。「関心自体が根本的に散漫」なADHDとは起こっていることのプロセスは違うのだが、表面的な結果は似ている。 また片付けに関しては、「完璧に片付けられないから手をつけない」という心理で手がつかないままになる。これもADHDの先延ばしに似てはいるが、ADHDはもともと完璧にしようとは考えないところが少し違う。 もうひとつ、幼児期から10歳頃までは明らかに多動と注意欠陥があるASの人も多く、子供のときには最初ADHDと診断されていたが後でASという診断になる
私はクリニックで発達障害を疑う場合、ASかADHDかで迷うことがしばしばある。その臨床現場での鑑別ポイントについては、以下のように考えている。 1.人へのオオカミ様同族的愛着がある場合はAS 2.異常に記憶力が良かったり、「後悔するならはじめからやるな」という思考パターンの時間的永続性不可逆性が見られればAS 3.聴覚過敏や触感による偏食など、自閉的特徴が多ければAS 4.物を捨てられないという場合に、「まだ使えるから」と物の立場で発想するのがADHD、「自分の思い入れがあるから」と自分からの愛着を強調するのがAS まずこれらのAS的特徴を考えて、これに当てはまらない場合にADHDを考える。いわゆる自閉症の「受動型」「孤立型」と、自己正当化型ADHDの区別が難しいことが多い。 下記に参考あり。 http://www.geocities.jp/yanbaru5555/adhdvsas.htm
これまでクリニックで接する事が多かったのは、「積極奇異型」のAS(アスペルガー症候群)の人だった。私のHPにある「ASspirit」は、積極奇異型のASの人の特徴の一覧であったことが少しずつ私にも理解できるようになった。 「受動型のAS」の人との接触の機会が増え、よく話を聞いてみると、積極奇異型のASの人とはかなり異なる特徴がいろいろあることが分かった。 例えば、「時間的な首尾一貫性を厳密に求めるところが目立たない」。緊張感が強くストイックな雰囲気がない。またASらしからぬ「流される」行動パターン。愛着でさえ「受動的」で、自分から追いかけて行くことが無い。 典型的には、学校や職場で至って大人しく、時に緘黙と見られるほど自己主張しない反面、家に帰って愛着の対象に対しては急に積極的、支配的で時に攻撃的となると言ったように、場面によって非常に違う顔を見せるケースがこの人たちだ。 外では大人しいの
自己診断追記 ADHDとASの違いの本質 ADHDとアスペルガー症候群の違いについて、最近の私のイメージが少し明確になったので書いておこう。 ASの対人関係の本質は「絶えず他者の存在が前提となっており、またその他者との関係が非常に近い」ということである。「愛着」までなくても、その「他者との距離が非常に近い」ということだけでASとADHDを区別できる。 例えばASの人はDVなどで痛めつけられても相手から逃げたり距離をとる発想自体ができないことが多い。「傷つけ合っても離れない」という認知と行動のパターンとなる。 対してADHDは、「他者の存在が前提されていない」「意識しない限り他者は直感できない」ということで、「まず当たり前に自分のことは自分ひとりのこと」ということになる。 例えば「あなたにも聞いてほしい」と言われなければ自分がその「場」を共有していると考えないなど。 自己正当化型ADHDは人
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