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思想と哲学に関するenemyoffreedomのブックマーク (10)

  • [書評]中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために(八木雄二): 極東ブログ

    ごく個人的な興味だが、デカルトの「方法序説」を読みながら、原点になったスコラ哲学をもう少し理解しておきたい気分がしてきたので、なにか入門書のようなものはないかと「中世哲学への招待(八木雄二)」(参照)を読んでみた。スコラ哲学の基的な考え方とバリエーションを簡素にまとめた書籍を期待していたので、その点では求めていたものとは違う印象もあったが、これはこれで興味深いだった。著者は自身のグリーンボランティアの体験談を含め、一般向けにゆったりと雑感を込めて書を書いている。エッセイ的に読みやすいと言えば読みやすい。が、どちらかというと思想史というより世界史に関心ある人向けではないかとも思った。 「中世哲学への招待」と銘打ってはいるものの、実際にはヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus)の紹介書と言ってよい。その名前だが、書ではドゥンスは家系名かとの推測余地も残

  • 『正義』の哲学者・サンデル氏が巨人開幕戦の始球式へ:巨人:スポーツ報知

    『正義』の哲学者・サンデル氏が巨人開幕戦の始球式へ 米ハーバード大のマイケル・サンデル教授 巨人が、25日の開幕戦(対横浜・東京D)始球式に、政治哲学者のマイケル・サンデル氏(58)を招へいすることが4日、分かった。米ハーバード大教授としてその講義が有名になり、日でも出版されたベストセラー「これからの『正義』の話をしよう」(早川書房)の著者。大の野球好きとしても知られ、巨人戦の始球式を務めたい、という人の希望を巨人サイドがかなえた形。近日中にも正式発表される。 東京Dのマウンドに、哲学者が上がることになった。白羽の矢が立ったのは、「正義の哲学」で知られる米ハーバード大のマイケル・サンデル教授だ。1988年の東京D開場以来、海外から招いての外国人による巨人開幕戦の始球式は初めてだという。08年には大相撲でモンゴル出身の横綱・白鵬が始球式を務めたが、関係者は「記録が残っている中でも(海外

  • 哲学的ゾンビ - Wikipedia

    哲学的ゾンビ(てつがくてきゾンビ、英語: Philosophical zombie、略: p-zombie)とは、心の哲学で使われる言葉である。物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、我々の意識にのぼってくる感覚意識やそれにともなう経験(クオリア)を全く持っていない人間と定義されている。 デイヴィッド・チャーマーズが1990年代にクオリアの説明に用いた思考実験であり心の哲学者たちの間で有名になった。 ホラー映画に出てくるゾンビと区別するために、現象ゾンビ(Phenomenal Zombie)とも呼ばれる。おもに性質二元論(または中立一元論)の立場から物理主義(または唯物論)の立場を攻撃する際に用いられる。ゾンビの概念を用いて物理主義を批判するこの論証のことをゾンビ論法(Zombie Argument)、または想像可能性論法(Conceivability Argumen

  • 清沢哲夫 - Wikipedia

    清沢 哲夫(きよざわ てつお、1921年1月26日 - 2000年1月20日)は、愛知県碧南市出身の宗教家・哲学者。大谷大学助教授を務め、晩年は石川県白山市「明達寺」(真宗大谷派)の住職としてすごした。清沢満之の孫。暁烏敏の孫・宣子と結婚し、暁烏 哲夫(あけがらす てつお) と改姓。 経歴[編集] 大正10年(1921年)愛知県碧南市の西方寺に生まれる。碧南市大浜尋常小学校、愛知県立刈谷中学校、大谷大学予科(ドイツ語科)を経て、昭和19年(1944年)大谷大学文学部西洋哲学科卒業。学徒動員され約2年間の軍隊生活を送る。戦争中に体験した「人間の獣性の事実」「人間の死の事実」を転機として復員後は社会の問題に向き合い、まず実家西方寺において「形骸化し死化した寺院制度」を改革しようとする[1]。 哲夫は、祖父満之の跡を慕って西方寺に参拝していた暁烏敏と幼少より面識があった。中学卒業時(昭和13年(

    enemyoffreedom
    enemyoffreedom 2010/11/23
    「『無常断章』に収録されている詩「道」は、「一休の言葉」と誤解され文言も多少間違ったままで、アントニオ猪木らによって広く流布されている」
  • 10代でそんなに読むことはないよ - finalventの日記

    はてなブックマーク - 10代で読んでいないと恥ずかしい必読書 - その1 - PictorialConnect ⇒10代で読んでいないと恥ずかしい必読書 - その1 - PictorialConnect とかいいながら、けっこうこれらは私は10代で読んだな。背伸びしたいころであった。 プラトン『国家』 これは存外に面白いなんだが、いろいろと手順みたいのが必要なんで、「プラトン入門 (ちくま新書): 竹田 青嗣」を先にきちんと読んでおいたほうがいい。 アリストテレス『ニコマコス倫理学』 れいのサンデル先生というかコミュニタリアンで再評価されつつある。現代的な文脈でいうなら、サンデル先生の説明をきちんと理解するだけでよいと思うよ。 ⇒[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル): 極東ブログ ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』 これ1

    10代でそんなに読むことはないよ - finalventの日記
  • 最近はやりのニーチェかな - finalventの日記

    はてなブックマーク - 「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら - 誰が得するんだよこの書評 率直に言うと、なんかとても変な感じがして、少し考え込んだ。 簡単に言うと、「なぜ人を殺してはいけないの?」とニーチェに問われたら、ニーチェはその問いが理解できないと思う。つまり、「人を殺してはいけない」という前提自体をニーチェは共有しないし、ニーチェと限らず19世紀の西洋人にとって意味をなしてないないはず。意味をなすとすれば、どのような人を殺してはいけないか、という、共同体倫理の文脈でしかない。 しいていえば、ニーチェにしてみると、ある部族なり民族がなぜ同一共同体内の人を殺してはいけないかという掟を持つのか、という、そういう限定された倫理の命題としてしか理解できないはず。 ほいで、そのように問いをフォーマライズすればおのずとニーチェの答えも出てきて、ようするに共同体倫理と自

    最近はやりのニーチェかな - finalventの日記
  • ポール・ファイヤアーベント - Wikipedia

    ポール・カール・ファイヤアーベント(Paul Karl Feyerabend、1924年1月13日 - 1994年2月11日)は、オーストリア出身の哲学者、科学哲学者である。アメリカ合衆国にあるカリフォルニア大学バークレー校の哲学教授を30年にわたり務めた。主著は『方法への挑戦("Against Method")』(1975年)、『自由人のための知("Science in a Free Society")』(1978年)、『理性よ、さらば("Farewell to Reason")』(論文集:1987年)。ファイヤアーベントは科学へのアナーキスティックな見方と、普遍的な方法論の否定によって有名になった。ファイヤアーベントは科学哲学にくわえ、科学社会学においても影響力を持つ人物である。 経歴[編集] 若年期[編集] ファイヤアーベントは1924年、ウィーンで生まれ、その地で高等学校までを過ご

    ポール・ファイヤアーベント - Wikipedia
  • 私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉 - finalventの日記

    「物と心」より。 こうして如何なる解釈をとろうと、確率論は帰納の意味を明確にはしたが、帰納の問題に解決を与えることができなかった。むしろ確率論の経験への適応可能性が帰納の正当化に依存するのである。 正当化が論理的に不可能だ、ということも全く正しい。理由は簡単で、ヒュームの言う通り、過去が未来を些かでも規定するという補償が些かもないからである。しかも、何の正当性もなくわれわれは現に無数の帰納を行っている。それが定義上「合理的」だからである、と言うことは念入りな冗談という以外はない。 実はその意味で科学にはなんら合理性はなく、念入りな冗談に過ぎない。 合理性ではなく、それは賭に過ぎないと大森は言う。 この、未来と過去の類似、過去世界の世界像の未来への外挿はこれまで何の根拠もない独断的仮定として非難されてきた。しかし、これは仮定ではなく賭なのである。そして、何の根拠もない賭けなのである。 いかに

    私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉 - finalventの日記
    enemyoffreedom
    enemyoffreedom 2009/03/03
    しかし我々のヒューリスティックな脳の回路は確率をいまいち上手に扱えなかったりする(帰納的な筋でも) / というあたりが色々な悲劇の原因になってるのかな
  • ソーカル事件 - Wikipedia

    ソーカル事件(ソーカルじけん、英: Sokal affair)とは、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル[注釈 1]が、1995年[注釈 2]に現代思想系の学術誌に論文を掲載したことに端を発する事件をさす[1]。 ソーカルはポストモダン思想家の文体をまねて科学用語と数式をちりばめた「無内容な論文」を作成し、これをポストモダン思想専門の学術誌に送ったところ、そのまま受理・掲載された。その後ソーカルは論文がでたらめな内容だったことを暴露し、それを見抜けず掲載した専門家を指弾するとともに、一部のポストモダン思想家が自分の疑似論文と同様に、数学・科学用語を権威付けとしてでたらめに使用していると主張した。 論文の発表につづいてソーカルは、フランスのポストモダン思想家を厳しく批判する著作を発表し、社会的に大きな注目を浴びた。 事件の経緯[編集] ソーカル論文の掲載[編集] 1994年、ニュ

  • 社会システムとルール社会を越えていくもの: 極東ブログ

    世界と「私」はどのような関係にあるのか。その関係はどのように変遷し、今、どう変わろうとしているのか、といった、青臭いネタを書く。話を簡素にするために、叩き台的に哲学者竹田青嗣「『自分』を生きるための思想入門」(参照)を使うが、話の筋は竹田の議論にそれほど依存しなくてもいい。ただ、その場合は議論が煩瑣になるというくらいだろうと思う。 同書については、ちょっと哲学志向のある高校生や大学生は読んでおくとその後人生が楽になるかもしれない。哲学プロパーな人は些細な点でいろいろひっかかえって途中で放り投げてしまうかもしれない。竹田の著作史的には、初期の現象学とこの時期特有の橋爪大三郎との交流の影響がある。それでも書の大枠は比較的近著「人間的自由の条件―ヘーゲルとポストモダン思想」(参照)までの射程を持っている。というか、むしろ先の書のほうが竹田思想のコアが見やすい。 まず古典的な世界象は未だ国会

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