Webライターの木下です。 第5回は重症心身障害児・者施設の歴史についてです。 制度の谷間にいた重症心身障害児 1947年(昭和22)の「児童福祉法」によって「精神薄弱児施設」が急速に全国に設置され、その後1960年(昭和35)に制定された「精神薄弱者福祉法」により「精神薄弱者援護施設」の設置が始まり、児童も成人も含めて知的障害者の福祉施策は、徐々に整っていきました。しかし、重度の重複障害児は、つねにその処遇が後回しにされていました。 重度の重複障害児を表すのに、「重症心身障害児(重症児)」という言葉が使用されるようになったのは1958年(昭和33)からです。戦後まもなくは、その概念さえもなく、重度の肢体不自由と精神薄弱の両方がある重症児は、公教育からは排除され、医師からは治療は無意味とされました。さらに、肢体不自由児施設からは精神薄弱があるからと拒否され、精神薄弱児施設からは肢体不自由が
相模原障害者施設殺傷事件の際に、施設に対して「隔離である」という批判がなされました。しかし、過去における日本の施設福祉の大きな課題は、非障害者と障害者を区別し、隔離することよりも、障害者に対して線引きをするところにありました。戦前は国家にとって「有用」であるか「無用」であるのかが線引きの基準となり、戦後新しい時代になってもしばらくは、「国家」が「社会」に言い換えられただけで、根底にある考え方は変わりませんでした。 施設は、軽度の障害児の自立生活のリハビリテーションのためにのみ設置され、18歳を過ぎても自立生活の難しい成人の障害者や重度の障害児は切り捨てられていました。施設に入所しなくても、本来は地域で支えることが可能な障害者が施設に保護され、施設が必要不可欠とされる障害者は施設を利用できないという矛盾がありました。施設の充実を求める施設関係者や親たちの声は、年齢や障害の程度にかかわる線引き
滝乃川学園のような民間施設は、公的な制度も支援もなく、経営的には苦難の連続でした。しかし、滝乃川学園の活動を知る者が石井のもとを訪れ、弟子入りするなどして個人指導を受けるようになり、そうして感化を受けたものたちによって、全国に滝乃川学園に続く、知的障害児施設がつくられていきました。 これらの施設の多くは、石井亮一と滝乃川学園を何らかのモデルとして設立・運営されたもので、知的障害児に対しては慈愛の精神だけではなく、生理学に基づく教育実践を必要するという精神が受け継がれ、治療的な教育法を確立していきました。 滝乃川学園「石井亮一・筆子記念館」 昭和初期に建てられ、当時は教室などとして利用され、2階は講堂になっています。 戦前においては、知的障害者に対する国の福祉政策はほぼ無策と言える状態で、これらの民間施設のみが細々とその救済に当たっていました。しかし、収容人数はすべての施設を合わせても400
Webライター木下です。後編も滝乃川学園・常務理事の米川覚さんの発言を中心にご紹介します。 「ここは入所型の施設ですが、最初からそれを目的としてきたのではなくて、目の前のニーズに対応する中で、そのように変わってきただけなのです。知的な障害があっても、地域で暮らすことを本人が望んで、その条件が整うなら、それがいいに決まっています。いま成人部の入所施設には80人が暮らしていますが、うちが運営するグループホームには130人が暮らしています。施設の人数と地域で暮らす人数が逆転しているのです。そして、直営のグループホームで暮らす人の半分は重度の人たちです。地域で暮らせると判断したら、むしろ私たちは地域移行を奨励するようにしています」 知的障害者の親は、本人が家族のもとや施設で暮らすことには理解を示しますが、自立して暮らすことには不安を抱く人が多いと言われています。米川さんたちがグループホームでの生活
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