こちらの記事でも触れたが、維新の「志士」たちは天皇を「玉ギョク」などと呼び、自分たちの権威付けのための単なる道具と見なしていた。そこには天皇という存在に対する真摯な崇敬も、天皇その人への人格的敬愛もなかった[1]。 (略)なお、木戸孝允があの慶応三年の大政奉還から王政復古のころにかけて書いた手紙を見てみると、天皇のことを、かれらのあいだでは「玉」(タマ、ギョク)といっている。「玉を奪う」とか、「以前は玉を幕府側に奪われたためにクーデターに失敗したけれども今度こそはわが方で“玉”を握って離さないようにしなければならない」などという。倒幕派にとっては、天皇は、自分たちの立場を合法化するための一つのシンボルにすぎなかった。 一方で彼らは、被支配層である人民大衆に対しては、徹底的に神格化された天皇像を刷り込んだ。人民告諭や教育勅語、明治憲法などがその典型である。 つまり、人民大衆向けの表向きの天皇