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歴史とラジオに関するarajinのブックマーク (4)

  • ラジオの登場で変わった天気予報と激減した近海の海難(饒村曜) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    ラジオ放送開始時から天気予報番組 中央気象台(現在の気象庁)が天気予報を発表し始めたのは、明治17年(1884年)6月1日からですが、交番などの黒板といった限られた場所での掲示で、しかも、その掲示は発表後数時間から半日くらいも遅れていました。 また、天気予報は官報や新聞の一隅に掲載されていましたが、1日遅れで、事実上は予報ではありませんでした。 このため、天気予報は国民生活にはなかなか溶け込みませんでした。 しかし、ラジオの登場で環境がガラリと変わります。 日でのラジオ放送は、大正14年(1925年)3月1日に東京放送局(JOAK,現在のNHK)で仮放送の電波が出されたのが最初です。 そして、同年6月に大阪、7月に名古屋と次第にラジオ放送が広がっています。 どの局もラジオ放送開始時から、番組にニュースとその地方の天気予報を入れていましたので、天気予報は発表後ただちに津々浦々にまで伝わり、

    ラジオの登場で変わった天気予報と激減した近海の海難(饒村曜) - エキスパート - Yahoo!ニュース
    arajin
    arajin 2019/11/04
    “「気象通報」は、コンピュータによって自動作成された原稿を、コンピュータによる音声合成で放送されています”
  • 5分弱の“玉音放送”を現代語訳してみた

    「堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ」の一節で知られる玉音放送。しかし、その全文を聴いて、意味まで分かっているという人は少ないのではないでしょうか。終戦の日の今日は、玉音放送の全文にちきりん現代語訳を加えた内容をお伝えします。 「ちきりんの“社会派”で行こう!」とは? はてなダイアリーの片隅でさまざまな話題をちょっと違った視点から扱う匿名ブロガー“ちきりん”さん。政治や経済から、社会、芸能まで鋭い分析眼で読み解く“ちきりんワールド”をご堪能ください。 ※記事は、「Chikirinの日記」において、2008年8月15日に掲載されたエントリーを再構成したコラムです。 今日8月15日は太平洋戦争の終戦の日。そこで8月15日正午にラジオで放送された5分弱の「終戦の詔勅」、いわゆる“玉音放送”を現代語に訳してみました(原文はこちら)。太字が原文(カナは追記)、その後が“ちきりん現代語訳”です。 玉音放送

    5分弱の“玉音放送”を現代語訳してみた
  • 東京新聞:「気象通報」90年目の縮小 天気図の作製に不可欠:社会(TOKYO Web)

    漁業関係者や登山愛好者らに重宝されてきたNHKラジオ第二の「気象通報」が今春、一日三回から一回の放送に減った。天気図の作製に不可欠な番組だが、インターネットの普及などで天気図の入手が容易になり、リスナーが減少したためという。九十年の歴史がある番組の縮小を残念がる声も出ている。 (藤浪繁雄) 「石垣島では南南西の風、風力2、晴れ…」。千葉市稲毛区の千葉東高校で四月下旬、山岳部員たちが午後四時から二十分間流れる気象通報に耳を傾けていた。読み上げられる各地の概況を、天気図用紙に書き込んでいく。 高校総体の登山競技では強豪校だ。天気図は競技の審査項目になっているため、全員で聴いて天気図を書く。気象係の部員丸子祥史(よしふみ)さん(17)、長尾珠月(みつき)さん(18)は、放送が減って「天気図の作製枚数も減った」と話す。 気象通報はこれまで午前九時十分、午後四時、同十時だったが、三月三十一日から午後

    arajin
    arajin 2014/05/10
    「番組の前身となる無線放送は1922年、漁業関係者や船乗り向けに始まった。NHKラジオでは28年から放送。太平洋戦争中は」「番組も中断されたが、終戦後の45年秋に再開。無線当時から一日三回流してきた。」
  • 原爆投下当日のNHK職員の日記見つかる NHKニュース

    68年前、広島に原爆が投下された日にラジオ放送が復旧するいきさつなどについて詳細に記された、NHKの職員の日記が広島市で見つかりました。 見つかった日記は、原爆投下当時、NHKの広島中央放送局の技術部に勤務していた森川寛さんが、昭和6年から昭和21年まで書いたもので、昭和49年に、森川さんが亡くなったあと、家族が広島市の自宅に保管していました。 このうち昭和20年8月6日の日記では、森川さんが爆心地から1.3キロの現在の広島市中区にあった放送局で被爆し、建物が大きく崩れたことなどが記されていました。 そして、森川さんは、空襲の情報を引き続き市民に伝えなければならないと考え、水に濡らした毛布を頭からかぶって、燃えさかる町の中を歩き、今の広島市安佐南区にあったラジオの電波を出す施設に向かったということです。 到着した施設は、大きな被害を免れていて、森川さんは打ち合わせ用の電話を使って大阪の放送

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