<右>卒業式に臨んだ際の髪形=保護者提供(※ピアスの穴を開けたのは卒業後)<左>編み込みをほどいた普段の髪形=兵庫県姫路市で2023年3月9日午後0時15分、幸長由子撮影 兵庫県姫路市の県立高校が2月に開いた卒業式で、3年の男子生徒(18)=当時=が髪形を理由に卒業生用の席に着席することを認められなかったことが判明した。 「友人との3年間を締めくくる思い出づくりができなかった」。黒人である父のルーツを踏まえた髪形だったが、学校側の答えは「校則違反」。多様な背景を持つ子どもが増える中、専門家は「子どもを抑え付けるのではなく人権尊重を」と呼び掛けている。 教師「校内から出てくれ」 生徒は卒業式を「特別な日」と考え、巻き毛である髪質でも整って見えるよう髪を編み込んだ。「コーンロー」と呼ばれ、アフリカにルーツを持つ黒人文化の伝統であることをインターネットで調べ、父親からも話を聞いていた。 父親によ
多様性を尊重できない教室 今日、「多様性」の尊重・承認は、どの分野においても重要視されている。この点は、教育政策においても、決まり文句のように語られている。しかし、その実態はかなりあやしい。 たとえば、学校教育が、男女という性別をめぐる固定観念・偏見からどれだけ抜け出せているかどうかを考えただけでも、そのことがよくわかるのではないか。世の中では、ようやく「性の多様性」という言い方が一般化しつつあるとはいえ、学校文化はまったくそれに対応していない。 ほかにも、日本語指導が必要な外国にルーツをもつ子どもたち、また、さまざまな障害のある子どもたちが安心して学べる環境が未だに整備されていないことを考えても、多様性の尊重が実態を伴っていないことがよくわかる。それどころか、むしろ近年、このような子どもたちを普通学級から排除していく方向が顕著となってきている。 また、不登校の子どもたちに対しても、「別の
人権は道徳ではない、っていう、あの話だけどね。 fairs-fair.org 特にこの記事のこの部分。 谷口さんは「人権は道徳ではありません」と話す。 「人権啓発として『みんなで仲良くしましょう』というキャンペーンをよく見ます。これは裏返すと『仲良くできないのは市民の責任だぞ』と、政府は責任転嫁をしていると言えます。政府には人権を守る責務があり、そのための大前提として差別を禁止し、差別を受けたら救済をして、差別を未然に防止することが必要です」 マジでそう思うわ。 つうか、学校と自治体の人権教育が「人権=道徳=みんなで仲良くしましょう」で覆い尽くされていて本当にヤバいと思う。その量・規模たるや洪水のようだ。 小学校の「人権学習参観」に行ってみればこれがベースでガンガン教えられているし、子どもたちに書かせる「人権標語」で最優秀に選ばれる作品はこのトーンばかりである。「広げよう えがお・やさしさ
鹿児島県の公立中学校で、制服の下に着ていた肌着の色が校則違反だとして、女子生徒1人が校外学習に参加できなかったことが2日、分かった。県教育委員会は、結果的に欠席させた対応を疑問視し「措置が妥当だったかどうか状況を確認する」としている。 県教委によると、同校は10月下旬、生徒約300人が校外学習に出発する前に服装検査を実施。黒いタンクトップを着ていた女子生徒と、シャツの下に何も身につけていない男子生徒の計2人が「このままでは参加できない」などと担任らから指導を受けた。 男子生徒は自宅へ着替えに戻り、予定通り参加。女子生徒は母親が迎えに来て、自宅に戻った。
タイトル、一汁一菜のご提案に引っ張られた感がありますが許してください。 うちはもともとほっとんど一汁一菜なのであの本は読んでいないのですが、素晴らしい提案だと思います。 最近、性教育に関する話題がまたちょびっとだけホットです。 「タブー視される日本の性教育、今のままでいいわけないよね」っていう、頷くしかないタイトルで しかしリプロダクティブヘルス・ライツを踏みにじる(もしくはスルーする)ような無責任な記事が話題になったり、 またもや、ひとりきりでの出産を余儀なくされた未成年女子が産児の遺棄で逮捕される事件が起きたりしたせいかと思います。 性教育はとても大事で、 いわゆる生殖活動をしようがしまいが、命と人生の基礎の基礎の話なので 絶対に必要です。 というような話はこれまでも書いてきたのですが (性教育、誰がすればいいんだ問題について思うこと) (性教育、だれにすればいいんだ問題について思った
学習指導要領に基づき、生活科で児童が自らの生い立ちを振り返る小学2年生の授業について、虐待などさまざまな理由で親と暮らせない児童を養育する里親らから戸惑いの声が上がっている。「一律の取り組みが、大きな負担になっている子どももいる」。切実な訴えに、専門家も「家族が多様化する中、学校側に配慮が必要」と指摘する。 「本当につらい作業だった」―。小学3年の女児を養育する県中部の里親は、女児が2年生だった今年2月に取り組んだ生活科の授業に苦しんだ。担任から「名前をつけた理由」「1歳の時に初めてできたこと」などの質問が書かれたプリントを宿題で配られた。絵本の形にまとめるため、思い出の写真などを準備するようにも言われた。 女児が里親の元にやってきたのは小1の時。写真はあったが、実の親と連絡は取れない。担任に相談すると「ありきたりなことでいいから書いて」と返ってきた。名前の由来や乳幼児期の様子など「想
わたしは、学校教育じゃなくて、学習支援で いいじゃんと主張することがある。いつでも、どこにいても、何才でも、だれもが学習できる。それが大事なんだと。 こどもを 学校に いかせるというのは、親にとっては託児所に こどもを あずけるという意味もある。親だって、こどもとばかり 顔を あわせていたくない。こどもだって、そうだろう。そういう意味で、学校という居場所には社会的な意味があるんだと感じる ひとも いるだろう。ただし、「学級」という空間の是非についていえば、わたしは完全に否定的だ。学級というシステムが人間を ダメにしている。くるしめている。わたしは そのように かんがえている。 学級という空間の だめっぷりを 批判し、介入していくうえで、学習支援という視点は重要な意味があると おもっている。 わたしは訪問語学講座を ほそぼそとやっている。あるときには ひとりの学習者に ふたりで訪問するという
日本で「子どもの権利条約」に関する議論が登場するのは、ほぼ9割方、いわゆる「管理教育」や校則の問題を扱った文脈においてである。よってぼくもこの文章の中では、そういった問題に限定して(つまり難民の問題や戦争孤児その他の問題はとりあえずおいといて)話を進めたい。 中学校の3年間、2度の転校を含む高校の2年間、そして高校を中退してから現在までの3年間、合計して8年間にわたって、ぼくは学校の管理、あるいは学校制度そのものを問題として個人的に活動を続けているが、その経験から率直に云わせてもらえば、こと「管理教育」および校則などの問題を解決する手段としては、「子どもの権利条約」は必要ない。必要ないどころか、日本で「子どもの権利条約」批准の運動をすること自体が、「子どもの権利条約」の精神に反するという大きな矛盾を生むことになると考える。 理由はとりあえず単純明快である。 現在、「生徒」と規定されている日
歴史の転換点となるような画期的な判決が出ました。残念ながら余裕がなく、とりあえずあるブログに張られていた朝日新聞、産経新聞、読売新聞へのリンクのうち、産経新聞の社説を熟読しただけですが、全てを理解しました。これが軍国主義の到来を告げる判決であることに疑いはありません。ウヨクの皆さん、よかったですね。サヨクの皆さん、残念でした。 判決文自体は読んでいませんが、産経の社説を見る限り、今回の判決のメッセージはこういうことです。民主的に選ばれた政府が何と言おうとも、試験で採用された教師は自由に行動してください。 政府は選挙で選ばれます。これに対して教師の採用には直接的な民主的プロセスがありません。もちろん教師も、民主的に選ばれた政府や議会が定めるルールに基づいて任命されるわけですが、国や都道府県の意思と教師の思想傾向には一定のズレが生じます。政府は好ましくない考えをもった人物をなるべく排除すべく努
国旗・国歌を拒否した教員に対する処分を違法とした判決を批判する声の多さが、ちょっと意外でした。ここまでとはね。もちろん評価する声も多いので、かなり意見の分かれる問題だってことはよくわかります。それにしても、学校の先生も嫌われてるんだなぁ…。 国旗・国歌と「日本」の同一視 「国旗・国歌を拒否するのは日本を拒否しているのと同じ」「なぜ自分の国を愛せないのか」から、「自分の国の国旗・国歌を敬うのは当り前」までバリエーションがありますが。象徴をその実体と同一視してしまう、という。あるいはそれは自然なことなのかもしれませんけど、「日本が嫌いだから拒否する」という主張ではないはずです。にもかかわらず「いや、本当は日本が嫌いだからだろう」と決めつけてしまう。 こういう人達が、何かあったときに自由を求める人を「非国民!」と呼ぶんだろうなぁ。 自主と強制の区別がつかない 「スポーツの国際試合などでは、歌うの
2006年03月06日16:32 カテゴリTaxpayer 法は私を資するために存在する 「カエルの子を変えるには」には想定以上の反響があった。 「想定の範囲内」だったのは、賛否両論のありよう。特に反論のほとんど全てが、「春日部共栄中は私立であり、『受け入れざるを得ない者』は公立へ」というものだった。 申し訳ないが、諸君は法が何たるかを全く理解していない。 法の下では、私的存在は最大限尊重されるものではあるが、治外法権では全くないのだ。 私的存在が幸福や利益の追求が許されるのは、あくまで法が許す範囲内においてなのだ。 高校教師の補講ブログ: 私立だから 一般企業が客がいないと何にもならないのと同じで、私立学校だって生徒が集まらないと、やっていけないのだ。 さすれば一般企業は客のためには何をしても許されるということになる。これを認めれば、「信者のため」にサリンを撒いたオウム真理教も当然免責さ
【上記】違法判決(asahi.com:朝日新聞のニュースサイト)を出した司法への批判的コメントをざっと見て思ったこと。教師は、権力・国歌シンボルになんかいちいち反抗してないで、大人になるべきだ(要旨)理学部生の気になる憂鬱「歌いたくないなら俯いていればすぐに終わりますよ。」左翼裁判官 - えーもんめっけだが学校の入学式や卒業式は、教育の場にあっては大事な節目であり、欠かすことのできないけじめである。その儀式に立つ教師はもはや私人ではなく、れっきとした<公人>である。自分勝手な甘ったれは許されないのだ。ヘンテコな判決は出るんだね - またも苦情ですか?ジマーマンさん!より孫引き。 うーんわからん。。。私はどうすればいいのか。国旗国歌を大切にしないからだめなのか、職務上反抗的な態度は許されないからだめなのか、起立しないからだめなのか、いや起立しても歌を歌わないのがだめなのか、いやいやお前の下手
もうすでに私よりしっかりした方々がしっかりとした意見を述べておられるので、ヘタレな私は新聞記事に突っ込むにとどめることにします。ええいどうせ「人間力・イオン」が「人間・カイオン」に見える女だ!(自分のバカっぷりにいたく傷ついているご様子) 「敗訴、1%も予想せず」 都教委は控訴の方針http://www.asahi.com/national/update/0921/TKY200609210411.htmlいったいどんな自信だよw中村教育長は「判決による学校現場の混乱は避けたい」と語り、「個人の思想・信条の自由があるとはいえ、学校現場で学習指導要領に反する姿勢を生徒に見せることが教育なのか」と判決を批判した。そもそも生徒は学習指導要領の内容知ってるのか? 都教委の管轄ってことはトラブルが起きているのは単純に考えて都立高校が多いだろうから、まあなんとなく新聞に載るようなことは知ってる生徒も多い
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