母と同じ所属事務所で頑張る水嶋。「好きな女優は竹内結子さん」と演技派が目標で、秋には初舞台&初主演ミュージカル「シンデレラストーリー」が控えている=東京・日比谷公園(撮影・加藤圭祐)
《その後、警察から電話があり、拓也さんは急いで電車で病院に向かった。病院には変わり果てた2人の姿があった》 検察官「美しかった真菜は傷だらけでした。莉子は『見ないほうが良い』と言われました。どれだけ痛く、どれだけ無念だったかと思うと、涙が止まりませんでした。莉子の遺体はあまりに損傷がひどく、(修復に)数日かかると言われました。一人にしたらかわいそうだと思い、修復の依頼はしませんでした」 《拓也さんは火葬までの間を振り返った。拓也さんは2人の遺体の間に横たわり、手をつないだという》 検察官「(2人の手は)冷たく硬く、握り返してくることはありませんでした」 《拓也さんは2人に話しかけ続け、莉子ちゃんが好きだった絵本を読み聞かせた。莉子ちゃんには「莉子、大好きだよ。お母さんと手をつないで離さないで」と、真菜さんには「莉子を天国に連れて行ってあげて」と伝えた》 《静まり返る廷内。真菜さんの関係者と
《うなづきながら聞く飯塚被告。その様子を、検察側の席に着いていた拓也さんがじっと見つめていた》 裁判長「それでは、被告人は証言台の前に戻ってください」 《男性が車いすを押す》 裁判長「起訴状に間違っているところはありますか」 《男性がしゃがんだ。飯塚被告の体を支えているようだ。飯塚被告が車いすから立ち上がり、発言する》 飯塚被告「はじめに、今回の事故により奥さまとお嬢さまを亡くされた松永さまとご親族さまに心からおわび申し上げます。最愛の2人を亡くされた悲しみとご心痛を思うと言葉がございません。深くおわび申し上げます」 《飯塚被告は数秒間、拓也さんの方へ頭を下げた》 飯塚被告「アクセルペダルを踏み続けたことはないと記憶しており、車に何らかの異常が起きたと思います。ただ、暴走を止められなかったことが悔やまれ、大変申し訳ありません」 《起訴内容を否認した飯塚被告。続けて弁護人が意見を述べる》 弁
2人の医師から薬物を投与されて死亡した女性は、会員制交流サイト(SNS)を通じて医師と連絡を取り、「安楽死させてほしい」という趣旨の依頼をしていたとみられている。 「作業は簡単だろうからカリスマ医師じゃなくてもいいです」。平成31年1月3日、ALS患者の女性がツイッターに書き込むと3分後、「訴追されないなら、お手伝いしたいのですが」と返信があった。書き込んだのは大久保愉一容疑者。2人の交流はこのころから始まったとみられる。 女性は「『お手伝いしたいのですが』という言葉が嬉しくて泣けてきました」と応答。同じ年の8月には「すべての医療行為には患者さんの同意がいるわけで、意に反する処置は本来違法です。なんなら当院にうつりますか?自然な最期まで導きますが」と持ちかける大久保容疑者に、女性が「ありがとうございます 決意したらよろしくお願いします」と応じることもあった。 女性はツイッターで、ALSの苦
ついにこの人まで…そんなオジサマたちの嘆きの声が聞こえてきそうだ。NHKの夜の報道番組「ニュースきょう一日」でメインキャスターを務めている井上あさひアナ(38)が結婚していたことが9日、分かった。番組内で左手の薬指に指輪をしていたことで、ネットでも注目されていた。 関係者によると、お相手は一般男性とみられ、今秋に結婚したという。井上アナといえば、お茶の水女子大学卒業の才媛で、2004年に入局。すらりとしたスタイルとナチュラルメークに近い品のある正統派の美貌で中高年層に大人気の女子アナだ。 「ニュースウオッチ9」でキャスターを務めたことでブレーク。同番組を降板したときはあさひロスが騒がれた。京都放送局に異動後も台風中継で登場しただけでネット上がざわついたほどだ。 あさひ待望論の多さに押されるかのように、2017年に「ニュース7」の土日キャスターに就任。その後、今年4月から「ニュースきょう一日
「例えば、東西ドイツ。東が西に併合されたが、それは映像のせいだと思う。東に比べると、西は遙かに経済成長して豊かになっていたが、そのことを東の新聞やラジオでは嘘だと言った。東ドイツは理論武装をしていました」 「でも、西のテレビ番組を見られるわけ。テレビのキャスターや出演者が着ている洋服が明らかに違う。街頭でしゃべっているときに、背後を走る車が全く違う。映像ではね、それが分かっちゃう。東の人々が、西との格差をいや応なく感じざるを得なくなったことは大きかったと思う」 --司会としては、発言しすぎるという声もある 「自分は司会だとは思ってない。表に出ているディレクターだと思っている。出演者には、本音を言ってもらいたい。政治家は本音を言うのが嫌だから、ごまかそうとする。本音を言ってくれと。文化人があがっちゃって、本当に言いたいことと違うことを言ってしまう。それは伝えたいこととは違うでしょと言う。本音
日本国民の要件を定めた「国籍法」が、ないがしろにされている。「二重国籍者」や「偽装日本人」が増えており、国家や社会、組織を静かにむしばみかねないのだ。民進党代表選で蓮舫代表代行(48)の「国籍」問題が注目されているが、二重国籍者は40万〜50万人はいるという推定もある。国益をめぐり他国と激しい競争が続くなか、このような状況を放置していいのか。国籍業務や入管業務に精通する、さくら共同法律事務所の山脇康嗣(こうじ)弁護士が激白した。 「日本の国籍法は二重国籍を認めていない。二重国籍になった場合は、一定期間内にどちらかの国籍を選択しなければならない。また、自ら志望して外国籍を取得した場合は、日本国籍を喪失する。にもかかわらず、二重国籍の人々は年々増加の一途をたどっている。国籍法の形骸化は由々しき問題だ」 山脇弁護士はこう言い切った。東京入国管理局長承認入国在留審査関係申請取次行政書士を経て、弁護
試合前夜、連れ込んだ男とベッドに飛び込んだ結果… ブラジル美人ペア大げんか、息合わず試合は最下位 シンクロ高飛び込み リオデジャネイロ五輪女子シンクロ高飛び込みで最下位に終わったブラジルペアが、試合前夜に「男性問題」をめぐりけんかしていたことが発覚した。ペアの1人が試合前夜、選手村の自室に同国の男子選手を連れ込んだことからトラブルになったようだ。 仲違いしたのはブラジルペアのイングリッド・オリベイラ(20)とジョバンナ・ペドロゾ(17)。9日に行われた競技ではまったく息が合わず、出場8組中8位に終わった。試合後、ペアを解消すると発表した。 地元のオ・グローボ紙によると、オリベイラは試合前夜、同室のペドロゾを部屋から追い出し、ブラジル代表のカヌーの男子選手(23)を連れ込んだ。別の部屋で就寝するはめになったペドロゾは怒り心頭で、仲違いしたまま翌日の試合に臨むこととなった。
時代を作った人が亡くなったとき、あまりの活躍の幅の広さに肩書を訃報でどう書くか迷うことがある。永六輔さんもその一人だろう。 直近で印象が強かったのはラジオパーソナリティー。ただ、83年もの人生を俯瞰(ふかん)したとき、高度成長期の「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」などの名曲を忘れることができない。作詞家としての活動が「永六輔」の名を国民の脳裏に刻みこんだことは言うまでもない。 しかし、商業的な作詞活動は昭和40年代にやめてしまう。井上陽水ら才気あふれるシンガー・ソングライターが活躍し、「自分の詞に自分で曲を付けるのが正しい」と思ったからだ。実はもう一つ理由があった。「(巨額の)印税を頼りにしていると、等身大でいられなくなる不安があるから」。10年前、講演会に向かう電車の中で取材したとき、そう明かしてくれた。 「等身大」は、永さんの信条だったのではないか。30年代の伝説的バラエ
20日に亡くなったグループサウンズ「ザ・ワイルドワンズ」のリーダー兼ギターで音楽プロデューサー、加瀬邦彦さん。その体は咽頭がんにむしばまれていた。声が商売道具の芸能人でのどにがんを発症するケースが後を絶たない。そして、その治療によっては、明暗も分かれかねない。 歌手や芸人などによくみられるのが咽頭がんや喉頭がん。すべてのがんの中で5%を占めるという喉のがんだ。 2009年に死亡したロック歌手、忌野清志郎さんは喉頭がんだった。歌手の命でもある声帯の切除を回避し、化学療法などで一度は克服したが転移は防げなかった。 しゃべりのプロである落語家、立川談志さん(11年没)も喉頭がんを発症。談志さんも声帯の摘出は拒否し、放射線治療などを受けていた。 やはり落語家の林家木久扇(77)も初期の喉頭がんだ。声を守るため、手術はせずに放射線治療を続けている。 衝撃的な告白としたのはロック歌手、つんく♂(46)
(上)に戻る 僕が戦地に出たのは、昭和18年の暮れからです。実際に戦争したのは19年と20年。19年は南方戦線、マレーからニューギニア方面にいました。20年は沖縄に米軍が上陸してきた4月以降、九州から沖縄に攻撃に行ってました。 僕が乗った飛行機は、特に消耗が激しかった。一式陸上攻撃機、大型機で、船を魚雷で沈める雷撃もする機体。魚雷攻撃では、半分以上やられちゃう。近距離で攻撃するんで、10機行くと5機は帰ってこない。おまけに日本の飛行機は防弾設備が全くない。米国のはパイロットの体を守るために防弾設備がしっかりしていたが、日本のは性能をぎりぎりまで追究してるから防弾設備はまったくない。 沖縄のときはめちゃくちゃですよ。僕の大型機はスピードも遅いし。昼間行くと敵の戦闘機にやられるので夜ばっかりなんだよね、南方戦線のときから。南方戦線のころは「とにかく攻撃に行って体当たりでもして向こうをやっつけろ
1929年、千葉市に生まれた高橋治さんは53年、東京大学文学部国文科を卒業後、助監督として松竹大船撮影所(神奈川県鎌倉市)に入った。世に言う「松竹ヌーベルバーグ」を支える人材が続々と入所した時期である。同期に篠田正浩が、同年代には大島渚や山田洋次がいた。 当時の空気を篠田は次のように話している。《そのころ松竹大船撮影所は頂点が小津安二郎、木下恵介、渋谷実。助監督の一番上が小林正樹、野村芳太郎。上に今村昌平、中平康、松山善三ら先輩がいて、僕の同クラスが直木賞を取った高橋治だった。その下に大島渚、山田洋次がいるわけです。脚本部には橋田寿賀子とか、そんなのがごろごろしてる。そういうの全部がいやだなと思ったね。自分で学んできたこと、そして戦後体験がこの撮影所には全くかぎ取ることができないと。なんで小津安二郎の映画はあんなことやっているんだ。いまでこそ世界的大作家ですけど、僕らはいかに否定するかとい
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