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ブックマーク / note.com/junjunjunpiano (2)

  • クラシックやジャズが「わからない」という意見に対する「わかる/わからない論争」について|音楽史note[JUN]

    いきなりですが、以下をお読みください。 故人西辞黄鶴楼 烟花三月下揚州 孤帆遠影碧空尽 唯見長江天際流 李白『黄鶴楼送孟浩然之広陵』 上記の作品は、有名な漢詩です。 これを読んで、どう感じますか? 「どう感じるかと言われても・・・」 「・・・“わからない”」 そう思いませんでしたか? では、今度はたとえば、漢文のおもしろさを知っている側になったとして考えてみてください。「漢文の鑑賞をもっと広めたい、漢詩の世界を伝えたい!」という場合、 「漢文は難しくてわからない」という学習者側の意見に対し 「まずは読み方、読むために必要な書き下しの方法や、押韻など使われている技法の鑑賞ポイント、作者について、時代背景などを噛み砕いて知ってもらおう」 と考えるのは妥当なことではないでしょうか? しかし、そんなところに、以下のような意見が溢れます。 「芸術というものは、文法や理屈で鑑賞するものではない!」 「

    クラシックやジャズが「わからない」という意見に対する「わかる/わからない論争」について|音楽史note[JUN]
  • 「西洋クラシック至上主義 vs 文化相対主義」と「ポピュラー音楽」|音楽史note[JUN]

    つい最近まで、学問において「音楽」といえばそれは当然「西洋クラシック音楽」のことを指していました。音楽を取り扱う専門家は、言及対象としてクラシックのみを対象とすることが自明の理でした。音楽の専門家にとってクラシック外の分野は眼中になく、卑俗で扱うに値しない対象外のものだとされたり、批評対象になった場合でもクラシック美学のルール・基準でのみ良し悪しが判断されるという、価値の押し付けがあったのです。 しかし、21世紀に入り、これが「西洋中心主義」だったとしてようやく批判されつつあります。これは、ポストコロニアリズムという立場から出た考え方です。ポストコロニアリズムとは、直訳すれば「ポスト植民地主義」となります。 これまではあらゆる学問において、西洋が頂点と位置づけられており、 「呪術的で未発達なもの(=非西洋)」 ↓ 「科学的で先進的なもの(=西洋・近代)」 というふうに進化論的に物事を考える

    「西洋クラシック至上主義 vs 文化相対主義」と「ポピュラー音楽」|音楽史note[JUN]
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