ときどき思い出したように再開される内部留保(笑)に関する煽りから思い出す、共産主義の本質とは。 我々の社会の不完全性の表れ?
ときどき思い出したように再開される内部留保(笑)に関する煽りから思い出す、共産主義の本質とは。 我々の社会の不完全性の表れ?
(はじめに: 本稿は、2011/5/27にTwitterに投稿しtogetterにまとめた、「保守主義者が反原発で何が悪い!」をほぼそのまま転載するものです) どうも、世上、「反原発=サヨク 原発推進=ウヨク」という抜き難い思い込みがあるようで、最近、「noiehoieは日頃、保守主義者だの右翼だのを自称しておきながら、なぜ反原発なの?」という質問をうけるようになりました。ネット上だけじゃなく、リアルで私を知ってる友人知人からも、「マンション住まいのくせして、祝祭日に玄関に日章旗を飾るようなキチガイウヨクのお前がなんで反原発なの?」と半ば呆れ顔で聞かれる始末です。 正直、私が反原発な理由は、「反原発は反革命の一環だから」って一言に尽きるのですが、これでは回答になっていないですし、第一、よけい、「あ、やっぱこいつキチガイだ」と思われて終わりです。 そこで今日は、「保守主義者である私が反原発
積読・読書途中の本に関する雑感や、オンライン上の面白コンテンツ、そして世の中の不合理に対する暴言を脊髄反射的に記す。 yutakashino (柏野 雄太) another weblog: kashino.exblog.jp Archive Amazon.co.jp: 社会科学における人間 (岩波新書): 大塚 久雄: 本 大塚久雄とか丸山真男とか、ある時期に日本の「知的巨人」といわれていた人たちが目指した、個人主義や個の確立みたいな議論を見直したくてちょっと今読み直しているのだけれど、あまりにインチキ臭いというか、観念論的すぎるというか、いいかげんな議論が続くので辟易してきた。 たとえば、この「社会科学における人間」なんだけれど、この本によると「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にはシュレージエンでは出来高払いにしても仕事を二倍して賃金を二倍うけとるというよりは仕事を1/2にし
十代の最後の頃、中国人の集まりにやめとけばいいのにモンゴル人の友人を招いたことがある。モンゴルからの友人は当然のように中国は内モンゴルを「返還」すべきだと言う。一方の中国人は猛反対し激しい論戦になった。 大学生のときに住んでいた寮の半分くらいは中国人で、私はよく彼らと酒を飲んだ。彼らはすぐに日本の戦争責任を追求するし、東アジアにおける中国の覇権について話していた。彼らは結構普通に「日本も中国の一部です」と言っていた。私は、まあ幾分かは困りながらも、そういう話になると熱くなるタイプだったので日本の正当性を訴えたり、逆に謝ったりしたものだった。 そもそも半分くらいの中国人は日本語を話さなかったし、私も私で英語で上手く話せなかった。それに中国人の人名を中国語風の発音できないのだから、細かい話なんてできるわけがなかった。まあ、それでも異文化交流として楽しかった。 知性ある彼らが中国の教育とメディア
⇒「暴力装置」の起源と系譜 - 名無しさんの弁明 おつかれ様でした。 異論はないですよ。実は、ヴェーバーは「暴力の独占」は述べたけど、「暴力装置」という用語はこの文脈では使っていなかった。だから、「暴力装置」は厳密にはヴェーバーに由来する用語ではないです。 ただ、社会学の慣例としてヴェーバーの「暴力の独占」が「暴力装置」と理解されてきたので、では、そういうことで整合的に説明しましょうかということでした。 そして整合的に説明するとたぶん私の解になると思う。少なからぬ人が罵声を投げかけてきたけど、理詰めで考えてごらん、そうなるから。 とはいえ。 「暴力の独占」を前提に「暴力装置」をきちんと理解すると、暴力装置とは国家である、ただそれだけ、という帰結しかない、ということ。 ただどこかに、ヴェーバーの「暴力の独占」と、流布されている「暴力装置」を繋ぐリンクがあるはずで、調べていたけど、よくわからな
結論からいうと私にはわからないんですけどね。Grimm の Deutsches Woerterbuch 第1版にも出てなかったし。 でも Gewaltapparat がヴェーバーと関係ないってのはないとおもうな。暴力装置のほうは知らないけど。 おそらくこの「暴力装置」という言葉は福田歓一の影響であろうと思われる。上にみたようにヴェーバーの独占について述べた箇所には装置という意味合いは含まれていない。このようにして、「暴力装置」という神山茂夫の用語は、左派、右派含め広まっていき、そして今や社会学用語集や政治学の教科書にまで掲載されるようになった、というわけである。 http://d.hatena.ne.jp/catisgood/20101121/1290326392 百歩譲って日本語としてそうなのかもしれませんが、Google Books に収録されてない論文などいくらもあるでしょう(苦笑)
仙谷由人官房長官が18日の参院予算委員会で、「暴力装置でもある自衛隊はある種の軍事組織でもあるから、シビリアンコントロールも利かないとならない」と発言し、「自衛隊が暴力装置とはなにごとだ」という文脈で話題になった。仙谷官房長官も即座に失言を認め「実力組織」と言い換えた。 話としては、天皇機関説や女性機械説と同じ類の、学問をしてない人は誤解するということで、たいした失言でもないようにみえる。問題があるとすれば、仙谷官房長官の認識が間違っている点にある。自衛隊は暴力装置ではないのである。それは、タコ焼きがタコ焼き器ではないのと同じことなのだが、まあ、ご説明しようではないか。 社会学や政治学や法学の世界では「暴力」という言葉はドイツ語の"Gewalt"(ゲバルト)の定訳語として使われることがある。その意味で社会学での定訳語としての「暴力」は日常使う意味合いと異なることがある。 同じことは英語にも
この記事について。 世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼 - Zopeジャンキー日記http://mojix.org/2010/10/15/matsuo-uyosayo ぼくは公言している通り左翼である。 左翼とは何か、とよく問われる。 左翼・右翼は元来「相対的な意味」しかない しかし、Yahoo!百科事典(小学館『日本大百科全書』)で「他の多くの政治的用語がそうであるように、右翼ということばも多義的であり、対立概念の左翼と同様、元来、相対的な意味しかもたないゆえに、厳密な定義を行うことは困難である」(西田毅)、「対立概念の右翼と同様、元来、相対的意味しかもたず、その時の政治状況や右翼が何をさすかで決まる」(加藤哲郎)と書かれているように、ここに固定された絶対的な意味を求め、万人の認める定義づけをすること自体が空しい作業だといえる。 よく言
20世紀フランスを代表する思想家で社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが10月30日、死去した。100歳。 第二次大戦中に亡命した米国で構造言語学を導入した新しい人類学の方法を着想、戦後フランスで実存主義と並ぶ思想的流行となった構造主義思想を開花させた。「未開社会」にも独自に発展した秩序や構造が見いだせることを主張し、西洋中心主義の抜本的な見直しを図ったことが最大の功績とされる。 サルコジ大統領は3日の声明で「あらゆる時代を通じて最も偉大な民族学者であり、疲れを知らない人文主義者だった」と哀悼の意を表した。 1908年11月28日、ブリュッセルのユダヤ人家庭に生まれた。パリ大学で法学、哲学を学び、高校教師を務めた後、35年から3年間、サンパウロ大学教授としてインディオ社会を調査。41〜44年にナチスの迫害を逃れて米国に亡命、49年の論文「親族の基本構造」で構造人類学を樹立した。 自伝
総括の総括の総括 今まで何度目にしてきたでしょう 連合赤軍誕生→血みどろの内ゲバへと至り あさま山荘で幕を閉じる出来事 日本映画だけでも 『鬼畜大宴会』『光の雨』『突入せよ!「あさま山荘事件」』 ここ11年で4本目 合間には数十年新作を撮ってない某ゴジ巨匠も 「『連合赤軍』を撮るからエキストラ募集」なんて 告知をかけていたりしました 「総括」「自己批判」のもとに 仲間同士凄惨なリンチで殺し合った 無知で盲目な若者たちの日々を 「総括」「自己批判」すべきだった 映画作品がまたことごとく失敗し 総括の総括に失敗した日本映画の「総括」をするために ゴジと並び称される伝説の巨匠・若松孝二が どこか一部なんてちゃちなこと言わないで 連合赤軍にまつわるすべてを ナレーション 字幕まで多用してみっちり この3時間10分に閉じ
今日の東京は日中暑かったのですが、夕方になってけっこう冷え込みました。夜になって甲州に帰ってきたわけですが、薄着で出たことをやや後悔。 今日のニュースでは 中国の覇権獲得への動きが目立ったもの ばかりでしたが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。 さて、コックスのセオリーの話の続きを。 セオリーというものには、それが生みだした「時間」と「場所」という「コンテクスト」があるということまでお話しましたが、このようなコンテクストがあるということは、つまりセオリーそれ自身だけで成り立つものではない、ということになります。 なぜなら、このようなセオリーというものは「時間」と「場所」というスコープに限定されてしまうものだからです。 もちろん自然科学の分野では「重力」(gravity)のように時間も場所も関係のないように思えるものがありますが、それでも相対性理論などの登場により、完全に普遍的とはいえない
⇒NHKスペシャル|象徴天皇 素顔の記録 見るつもりはなくて、録画の設定中、天気予報を見ていたら始まり、つい見てしまった。 見て、感動しましたよ。天皇、SUGEEEEですよ。いや、昭和のシーンに明仁さんが出てきて「天皇」と言われると、「ちがうだろ皇太子だ」と脳内コビトが突っ込むのがうざい。 ウヨサヨがお好きな「天皇」というのはさておき、普通に公務をされているリベラルな中産階級の爺さん婆さんの金婚式に至る日々という感じが最高によかったですよ。中産階級なわけはなかろうにというのもあるかもしれないが、その慎ましさはそれだった。 このお二人のお人柄は、もう、どうしようもなくすばらしいものだった。人として優れているのだから、どうしようもないじゃんという以上に、ご努力の姿がきちんと伝わる。 天皇であることには、まあ、公務だしなというくらいに割り切って私は見ていたのだが、いやこの公務はただ事ではない。明
まあ、そうでしょう。身を引くべきだということ。結論からすれば。そして、それは小沢はもうわかっているでしょう。 以下は野暮で。 政治家に不祥事が持ち上がった時、問われるのは法的責任だけではない。重い政治責任を負わねばならない。政権をうかがう大政党の党首となれば、なおさらである。 それは違う。今回のケースでは不祥事を決めたのは検察で、検察の道理というのを朝日というジャーナリズムがどう判断するかによる。そこを短絡的に世論と一体化した正義であってはいけない。今回の流れでは、小沢聴取報道をネグっていたあたり、あまり朝日は褒められたものではない。 民主党の小沢代表の公設第1秘書が、西松建設の違法献金事件で起訴された。政治資金規正法違反の起訴事実は、逮捕容疑とほとんど変わらず、あっせん利得や収賄など別の容疑に広がることはとりあえずなかった。 つまり、朝日内部でそこが割れていたのだろうと思う。ただ、この事
友人で同業者でもある松田尚之さんが、NHK特集「ロシア正教」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090302.html(18日深夜に再放送アリ)を紹介する日記に絡めて、先日の僕の「帰省覚え書き」に触れてくださっています。 http://d.hatena.ne.jp/border68/20090305 一番強く思ったのは、「大人の不幸」っていうのは外側からも認識できるような形で現象するように思える(この番組の例で言うと貧乏とか、家庭不和とか)けど、根っこのところ、本質には、「俺の人生なんでこんなふうになっちまった(なっちまってる)んだろう」っていう、悔恨、不如意、不遇感、「誰かこの割り切れなさを解釈してわかるように説明して納得させてくれ」という願い、しかしそれが永久にかなわないまま死んで行くのであろう自分の人生への諦めみたいな、その人固有の内側の問題があるん
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、このブログのエントリーの人気の傾向ははっきりしていて、歴史系・民俗学系のエントリーはことごとく無視に近い状態にある一方で、「読解力」だとか「問題解決」だとか、「行動力 」、「フレームワーク思考」などといったライフハック系とも呼べるようなキーワードが含まれるエントリーには割と恒常的に人気があるように感じられます。 こうした傾向は以前からあって、昔のエントリーでも「粘り強さ、継続性」とか「アウトプット速度」とか「PR下手で損してる」とか「」なんていうフレーズがタイトルに入っていると人気は得やすいようです。 これらの問題は単に個人レベルだけの問題なの?人気はないよりあったほうが書くモチベーションも上がるが、かといって人気を得るためにそうしたエントリーばかりを書こうという風に
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081220/p2 マイミクより教えてもらった日記。しかし、あまりにも簡単に68年の特殊な状況を現在に焼きなおしている上に、最も重要な考察、つまり、なぜ日本で学生運動が残らなかったのか?どうしてここまで政治が、つまり左翼や革命という理念がダサくなったのか?という考察がまったく無いのは、マズすぎるというか、馬鹿丸出しだ。海外が盛り上がってるからオレ達も!ってのはわかるが、物事はそんな単純ではない。 68年は戦後ベビーブーマーの問題が一番の比重を占めていて、戦争が終わって平和になったのでみんな子供を作りまくったのが一番の問題だ。(戦争は性を最も抑圧したから、その反動で性意識の改革が進んだのも一因。自由は性から始まったともいえる。額縁ショーやカストリ雑誌、パンパンやストリップ)それによって生まれたのが団塊の世代だ。なぜ団塊かと言えば
を聞きに行ってきた。「アートと公共性」というタイトルだったのだが、僕はアート方面はからきしなので、「公共性」の方にアクセントを置いたつもりで話を聞いてきました。 ……というのも半分本当、半分冗談で、この場にいた大半の人がそうであったように、例の「ピカッ」事件の当事者である「Chim↑Pom」のリーダーが卯城氏が来るということで、半分は野次馬根性でした。 あと以下の文章で僕が使う「アート」というのは、このトークイベントのコンテクストからするとおそらく(言ってる本人がおそらくというのも変だが、知識がないので)現代アートのことを指しているのだと思ってください。 純朴な「対話」への意志 http://ca-mp.blogspot.com/2008/11/talk-1203.html 共同体と“開かれた”アート 〜アートと公共性の関係〜 第一夜:アートは、何とどうやって関わっていくのか <ゲスト>
「だから死刑には反対する」と、そこへ寄せられたブクマコメントなどについて。いろいろと、曖昧さの残るところについても、もう少し付け足して考えておく。*1 僕の死刑反対論は、基本的には終身刑という刑が存在することが前提。しかし、現時点では終身刑なるものはないから、死刑でないならば無期懲役以下の刑ということになり、かなり現実的な未来に被告人が刑を終えて出てくる可能性がある。そうなるならば、正直、心中穏やかではいられないだろう。まして、身近に住まれる、なんてことにでもなるならば。だから、死刑制度には反対なのだけど、今回の死刑判決に反対できるかと聞かれるならば、さすがに迷う。あえて、どうしてもどちらかを選べ、と言われるなら、「死刑判決に反対」と述べるかな。人が人を殺す、しかも、そのことを正しいと言う、そのことは僕にとって、その程度には重いことだ。──もちろん、このように考えているならば、本村氏の主張
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く