会議による成果報告を行う丹羽文科副大臣(右)と高木厚労副大臣文科・厚労両省の合同による「家庭と教育と福祉の連携『トライアングル』プロジェクト会議」は3月29日、第3回会合を文科省で開催し、同プロジェクトの報告を取りまとめた。教委と福祉部局、学校と障害児通所支援事業所などとの連携強化を図り、障害福祉サービスを利用する児童生徒や保護者の効果的な支援につなげる。 同会議ではこれまでに、教委と福祉部局が連携して、障害児と保護者へのサポート体制を構築している自治体や、障害者団体、放課後デイサービスなどを提供している団体などからヒアリングを行い、連携する上での課題や具体的な方策を検討してきた。 学校と放課後デイサービス事業所との間で、活動内容や担当者との連絡先が共有されていないなど、円滑なコミュニケーションが図られていない実態や、保護者にとっては、乳幼児期、学齢期、社会参加の各段階で相談窓口が分散して
ブロックで遊ぶ親子。照明が消えると次のプログラムに移る合図 学校法人明晴学園(斉藤道雄理事長、東京都品川区)はこのほど、未就学の聴覚障害児が通う児童発達支援事業所「めだか」を開設した。全職員が日本手話を使う。身振りや顔の表情も含めた小さな発話を見逃さず、子どもが「伝わった」と思える場面を増やす。同学園は「職員全員が日本手話を使う児童発達支援は全国初ではないか」としている。 「めだか」は月~金曜の週5日開く。1日の定員は10人。同学園は今年3月まで自主的な取り組みとして週3日乳児クラスを開いていたが、ニーズが大きいため福祉サービスとしての「めだか」を6月に開設した。 サービス内容は「個別相談」「指さしや動作を学ぶ集団遊び」などで、ろう者を含む4~6人の職員が個別支援計画に基づいてかかわる。「めだか」に通う2歳の男児の母親は「ろうの職員だからこそ気付く、うちの子の身振りや表情があります。一人ひ
発達障害などを持つ子ども向けの運動教室が徳島市幸町3のシェアオフィスで開かれ、人気を集めている。指導するのは、子どものスポーツ支援を行う団体「Do(ど)したん」(徳島市)代表で理学療法士の佐古修司さん(33)。子どものペースに合わせた個別指導で、運動能力や社会性などを養うのが狙い。6月末から通う徳島市の小学3年生、小島大輔さん(8)がレッスンを受ける様子を取材した。【大坂和也】 大輔さんは夕方、楽しみにしていた様子で母紀子さん(52)と一緒に教室に入り、すぐにバランスボールに乗って遊び始めた。対面で座ってあいさつし、佐古さんが「今日は何がしたい?」と聞くと、大輔さんが「バランスボール!」と答えてレッスンが始まった。
子どもの発達に悩む人や集団生活などが苦手な子どもに居場所を提供する事業所「こども支援SSE」が1日、上田市中央3の「リンクスペース」に開設された。事業所の代表で、発達障害の子どもを持つ天田かよ子さん(47)が子育てや療育などについて相談を受ける。SSEは、「共生(Symbiosis)」「自立(Self-reliance)」「共感(Empathy)」を意味とする英語の頭文字で、誰もが気楽に立ち寄れる居場所を目指す。【ガン・クリスティーナ】 天田さんは学生時代、自閉症など発達障害の子どもを持つ母親を手伝うボランティア活動をしてきた。夜から日が明けるまで子育てする母親の悩みを聞いたこともあり、「虐待が起きてもおかしくない」と痛感することもあった。
利用料高額で経済格差 学童保育への入所を待つ待機児童が増え続ける中、「アフタースクール」と呼ばれる民間の学童保育が、福岡などの都市部で相次いで開設されている。学習塾やIT、鉄道などさまざまな業界が参入し、本格的な英会話など特色あるカリキュラムで人気を集める。その分、利用料は月額数万円と高額で、「保護者の経済力で放課後の学習環境に差が出る」との指摘もある。【林由紀子】 「Are you ready?Go!」。外国人教師の掛け声でドッジボールが始まると、子どもたちが一斉に歓声を上げた。ボールを当てられた子は「Oh my God」、勝負がつけば「One more time」と次々に自然な英語が飛び出す。
Webライターの木下です。 第3回からは戦後の施設の歴史についてです。 敗戦の翌年の1946年、日本は、天皇を主権者とする「大日本帝国憲法」から国民を主権者とする「日本国憲法」へと国の根本を改めました。戦前においては、国家の役に立つ臣民を育成することが国家の役割でしたが、戦後においてはすべての国民が文化的な生活を送り、幸せを追求できるように、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上・増進に努めるのが国家の役割に変わります。 戦前においては、労働力としても兵力としても期待されていなかった知的障害者は、一部の障害の軽い者だけが教育を受けることができただけで、ほとんどの者は社会参加の道は閉ざされ、片隅に追いやられていました。しかし、戦後においては、福祉の対象として意識され、法律的・制度的な福祉措置が講じられていくようになります。 最初に手を差し伸べられたのは、戦前同様に子どもたちでした。 戦争孤児
滝乃川学園のような民間施設は、公的な制度も支援もなく、経営的には苦難の連続でした。しかし、滝乃川学園の活動を知る者が石井のもとを訪れ、弟子入りするなどして個人指導を受けるようになり、そうして感化を受けたものたちによって、全国に滝乃川学園に続く、知的障害児施設がつくられていきました。 これらの施設の多くは、石井亮一と滝乃川学園を何らかのモデルとして設立・運営されたもので、知的障害児に対しては慈愛の精神だけではなく、生理学に基づく教育実践を必要するという精神が受け継がれ、治療的な教育法を確立していきました。 滝乃川学園「石井亮一・筆子記念館」 昭和初期に建てられ、当時は教室などとして利用され、2階は講堂になっています。 戦前においては、知的障害者に対する国の福祉政策はほぼ無策と言える状態で、これらの民間施設のみが細々とその救済に当たっていました。しかし、収容人数はすべての施設を合わせても400
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く