日本の朝鮮侵略史研究の権威 日本軍による景福宮占領の真実を明らかに 羅州東学謝罪碑の建立を導く 「日本、植民地支配の違法性を認めるべき」 日本の歴史歪曲を批判し、「日本の良心」とも呼ばれた奈良女子大学の中塚明名誉教授(写真)が29日死去した。享年94。 故人と親交の深い円光大学のパク・メンス名誉教授は30日、肺がんで闘病してきた中塚教授が前日亡くなったことを遺族から聞いたと明らかにした。 大阪出身で京都大学史学科を卒業し、日本近代史を専攻した故人は、1960年代から日清戦争をはじめとする近代日本の朝鮮侵略史研究に力を入れ、多くの研究成果をあげた。故人が1997年に出した『歴史の偽造をただす―戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』は、1894年に日本軍が行った景福宮不法占領の真実を詳細に記録した日清戦争の「戦史草案」を探し出し、日本軍の景福宮不法占領の真実を100年ぶりに明らかにした力作
【ソウル聯合ニュース】韓国の全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領が23日午前、ソウル市内の自宅で死去した。90歳だった。青瓦台(大統領府)は政府の対応を議論する会議を開くなど、緊迫した動きを見せた。 青瓦台は全氏の死亡直後、警察などから報告を受けた。その後、秘書室を中心に葬儀の手続きや国立墓地への埋葬、文在寅(ムン・ジェイン)大統領の追悼メッセージ発信、大統領名義の花輪発送などを議論しているという。 青瓦台は全氏の葬儀を「国家葬」として執り行うことや国立墓地への埋葬に否定的とされる。全氏は1980年の「5・18民主化運動(光州事件)」当時、多数の市民を虐殺した歴史的な過ちを犯したが、その過ちをしっかり認めなかった上に謝罪もせず、遺族に深い傷を残した。 全氏は有罪判決を受け、元大統領として礼遇を受ける資格をはく奪されたため、国家葬と国立墓地埋葬の対象ではない。先月に死去した盧泰愚(ノ・テウ)
インタビューに答えるベニグノ・アキノ前フィリピン大統領=2016年5月/Jes Aznar/The New York Times/Redux (CNN) フィリピン国営メディアの報道によると、ベニグノ・アキノ前大統領が24日、ケソン市内の病院で死去した。61歳だった。 「ノイノイ」の愛称で人気のあったアキノ氏は、民主化を主導した母コラソン・アキノ元大統領の死後、2010~16年、第15代大統領を務めた。 フィリピン通信社の報道によると、アキノ前大統領は首都マニラ近郊の病院で死去した。遺族が間もなく声明を発表する予定。 経済学者だったアキノ前大統領は、1998年に政界入りして下院議員を3期務め、2007年に上院議員に就任した。 父は民主化運動の指導者だった「ニノイ」ことベニグノ・アキノ元上院議員。フェルディナンド・マルコス独裁政権に反対して、1983年、亡命先の米国から帰国したところで暗殺さ
三重県四日市市のぜんそく患者がコンビナート企業に勝訴した四日市公害訴訟の原告のうち、唯一の存命者だった野田之一(のだ・ゆきかず)さんが25日、気管支ぜんそくのため死去した。87歳。四日市市出身。自宅は四日市市塩浜2839。通夜は26日午後6時から、葬儀・告別式は27日午後1時から四日市市芝田1の5の31、四日市中央斎奉閣で。喪主は妹しづゑ(しづえ)さん。 野田さんはコンビナートの近くで漁師をしており、四大公害病の一つ「四日市ぜんそく」を発症。34歳で認定患者になった。1967年、患者8人と共にコンビナート企業6社を相手取り、大気汚染による健康被害の損害賠償を求めて津地裁四日市支部に提訴。支部は5年後の72年7月、判決で企業側の責任を認めて約8800万円の支払いを命じた。 野田さんは当時「判決で青空がすぐに戻るわけではないから、ありがとうの言葉は控えさせてもらう。青空が戻ったときにありがとう
【2月27日 AFP】インドのトップ女優、シュリデヴィ・カプール(Sridevi Kapoor)さん(54)が24日夜、訪問中だったアラブ首長国連邦(UAE)のドバイで死去し、インド国内ではその早すぎる死を悼む声が広がっている。UAEの警察は26日、死因はホテルの浴槽での水死だったと発表した。 おいの結婚式に出席するためUAEを訪れていたシュリデヴィさんの死因は当初、心臓発作と伝えられていた。だがドバイ警察はツイッター(Twitter)への投稿で、検視結果として「シュリデヴィさんはホテルの部屋の浴槽で意識を失い、水死した」と発表した。 シュリデヴィさんへの弔意は続々と寄せられ、ムンバイ(Mumbai)の自宅前には26日、前日に引き続き、火葬される前に一目でも会いたいと願うファンら数百人が集まった。 インド南部タミルナド(Tamil Nadu)州で生まれたシュリデヴィさんは、約300本の映画
インド映画界ボリウッドの大スターで、「シュリデビ」として知られる女優シュリデビ・カプールさんが24日、アラブ首長国連邦(UAE)ドバイのホテルで死亡した。54歳だった。当初は心不全と報道されていたが、ホテルの浴槽で溺死したのが死因と26日に発表された。
小渕、森政権で官房長官や自民党幹事長などを歴任した元衆院議員の野中広務(のなか・ひろむ)さんが26日、死去した。92歳だった。幅広い情報収集と鋭角的な発言で政敵に切りつける政治手法が「政界の狙撃手」と評された一方、平等や平和といった戦後民主主義の価値を重視する姿勢を貫いた。 1951年に25歳で京都府園部町議に当選して以来、同町長、京都府議、府副知事を経て、83年衆院補選で初当選した。57歳と遅咲きの国政転身だったが、92年の竹下派分裂と翌年の自民党野党転落をきっかけに存在感を発揮。細川護熙首相の献金問題を追及した。 自民党が政権復帰した村山政権で自治相兼国家公安委員長として初入閣。オウム真理教の一連の事件に対応した。小渕政権で官房長官となり、自自公連立政権の立役者となった。小渕恵三氏が病に倒れた際、後継に森喜朗氏を推した「5人組」の一人として批判を浴びたが、森政権では党幹事長に就任。関係
朝日新聞阪神支局襲撃事件(1987年5月3日)で重傷を負った元朝日新聞記者の犬飼兵衛(いぬかい・ひょうえ)さんが16日、急性心臓死の疑いで香川県内の病院で死去した。73歳だった。葬儀は近親者で営んだ。 憲法記念日の87年5月3日夜、兵庫県西宮市の阪神支局2階編集室に目出し帽をかぶった男が侵入、犬飼さん、小尻知博記者(当時29歳)に散弾銃を発砲。小尻記者は死亡、犬飼さんは右手の小指と薬指を失い、腹部に重傷を負ったが、胸のポケットにあったステンレス製のペンが散弾を防ぎ、一命を取り留めていた。事件後、報道機関に「赤報隊」を名乗る差出人から犯行声明文が届いたが、未解決のまま2002年に公訴時効が成立。03年、警察庁指定116号「朝日新聞襲撃」事件は関…
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