平成一八年一月に開催された日本共産党第二四回大会で、不破哲三議長(当時七五歳)は、「高齢と健康面の理由から、国会活動だけでなく、選挙等党活動の先頭に立てなくなっているが、それでも最終的な責任者にとどまることは、合理的でない上、若い世代の幹部が力を発揮することを妨げる要因となる」として、一二年一一月から就いていた議長職を退任しました。後任の議長は選出せず、志位和夫委員長及び市田忠義書記局長は留任しました。 不破前議長は、議長職を退任したものの、「知力と体力がある限り、党の発展に力を尽くすことは、共産主義者としての義務であり、責任である」として、共産党の最高指導機関である常任幹部会(一八人で構成)にとどまり、今後の党運営に影響力を残しました。また、党大会後は、「科学的社会主義」の理論研究機関である社会科学研究所の所長に留任するとともに、「若い機関幹部の計画的・系統的養成」のため開催した「特別党