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書評と歴史に関するkiku-chanのブックマーク (6)

  • 日本の歴史をよみなおす - 情報考学 Passion For The Future

    ・日歴史をよみなおす 「聖徳太子は倭人であっても日人ではない」 中世までの日史観を大きく変えた網野善彦の名著の文庫版。続編も収録。 日の社会は十四世紀の南北朝動乱以前と以降では大きく変容しており、その転換期を調べることで、中世日のイメージをとらえなおす。そこには教科書的常識とは大きく異なる、現代と異質の文化・社会が広がっていた。 民衆の生活や風俗に目を向けることで、時代の質が見えてくる。たとえば被差別対象の非人はかつては違った意味を持っていた。著者は非人とは中世以前はケガレに関する職能であったと指摘する。日文化のケガレとは「人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたとき、それによって人間社会におこる畏れ、不安と結びついている」ものだが、十四世紀を境に社会が文明化されるに従い、ケガレに対する見方が畏怖、畏敬から、汚く汚れた忌避すべきものという現代の感

  • 『江戸時代の天皇』 - HONZ

    昨今の「維新流行」はいったい何なのだろうか。政権交代からTPP、政治家の自己アピールまで、なにかと言えば平成維新だ、平成の開国だ、奇兵隊だ龍馬だと、幕末・維新期になぞらえる。江戸時代は由らしむべし、知らしむべからずの封建的・圧政的時代であり、「鎖国」によって激動する世界史の流れにも目を瞑った時代。それを打ち破ったのが明治維新であり、近代国家日の夜明け、日の青春であるという、いわば「維新史観」が厳然と根を張っていているらしい。だがそれは、維新になぞらえてしまえばもうそれ以上深く考える必要もないという、思考停止の作用を働かせてはいないだろうか。維新=善であると。言うまでもなく、維新とは政権を奪取した側が権力闘争と内戦の勝利を「御一新」と呼び、やがて「維新」と呼んだに過ぎず、そもそも善と悪という基準で判断するようなことではない。歴史の流れに「以前と以後」という断層を安易に設定してしまうことに

    『江戸時代の天皇』 - HONZ
    kiku-chan
    kiku-chan 2011/11/09
    麻木さんって、教養人だったんだなあ。
  • 頼むから裸はやめてと言ったから明治維新は着衣記念日 - 虚無回転レシーブ

    『刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ』を読みました。これは個人的に大ヒットでした。面白い。 刺青とヌードの美術史—江戸から近代へ (NHKブックス)posted with AZlink at 2011.1.24宮下 規久朗 日放送出版協会 売り上げランキング: 233633 Amazon.co.jp で詳細を見る 序章でいきなり打ちのめされた。 私はかつて裸で歩き回るのが好きだった。(中略)しかし、上半身だけ裸になって新宿の繁華街を自転車で走っていたところ、誰かが通報したのか、パトカーに追いかけられて呼び止められ、警官に取り調べられたことがある。下半身は黄色っぽいズボンをはいていたのだが、遠目には何も身につけていないように見えたらしい。 また、一時は裸足で外を歩くことに凝り、裸足で電車に乗ったり大学に行ったりしたものだが、美術館に行ったとき、警備員がスリッパを持ってやってきて、無理に履

    頼むから裸はやめてと言ったから明治維新は着衣記念日 - 虚無回転レシーブ
  • 「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」 - H-Yamaguchi.net

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    「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」 - H-Yamaguchi.net
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    小林英夫『日中戦争』 なんで日中国に負けたのか? 「なんで日中国に負けたのか」という問題意識で書かれていると理解すると、非常にわかりやすいである。 まあ、ご人は「八年間に及ぶ戦争の経過を網羅的に見ていくのではなく、大局的に両国の戦略を比較する『視点』」(p.4)だと書いているんだけど、読み解き方としては、「日の方が軍事力も産業力も強かったはずなのに、なんで負けたの?」というふうに言い換えると、シャープに読めるだろう。 書をものすごく乱暴に要約すると、“日はそれまでの戦争で「殲滅戦」型の戦争ばかりしてきて、「消耗戦」タイプの戦争をしてきていなかった。「殲滅戦」では軍事力や産業力などの「ハードパワー」がモノをいうが、「消耗戦」のような長期のたたかいになると、外交や宣伝(世論)といった「ソフトパワー」が大きな役割を果たし、結局日の「ハードパワー」は中国側の「ソフトパワー」に勝

  • 日中戦争下の日本 - 池田信夫 blog

    9/14の記事のコメントで教えてもらって読んだが、たしかに著者はあとがきで、書の執筆中に「『丸山眞男』をひっぱたきたい」を読んで、「昭和戦中期の日とは、今の日のことではないか」という錯覚に陥ったと書いている。 軍部が独走し、言論を弾圧して国民を戦争に動員した、という常識的な理解は間違いである。当時の兵士の書いた手紙や新聞などの一次史料を読めば、兵士は赤木氏のように閉塞感の中で戦場に自己の実現を求めて行ったのだ。新聞も、検閲によってやむなく戦争を賛美する記事を書いたのではなく、争って戦地に従軍記者を送り、戦意高揚につとめた。 戦争は固定化した秩序を破壊する一種の祝祭であり、原初的な社会には対外的な戦争や対内的な「王殺し」のようなメカニズムが埋め込まれていた。それが「自然国家」になると、権力は世襲されるようになり、秩序は固定され、支配階級は腐敗する。それを破壊するという点で、戦争には

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