タグ

再帰的近代に関するkiku-chanのブックマーク (10)

  • 「再帰性」という永久機関への同一化 - Freezing Point

    【2007-06-11追記】: 再帰性や事後性に関するこの当時の私の記述は、今から見るとぜんぜん駄目。 あらためて勉強を続けます。 「終わりなき再帰性」は、それだけでは合理的検証の無限ループ(「臆病な発想」)に陥る。 これは、クラッチを失ったエンジンのような状態であり、ひきこもりの不毛な暴走状態そのもの。 そこで、 「終わりなき再帰性」という永久機関をエンジンとし、 事後性(フロイト)の見地から、「事後的な分析」の時間軸を、駆動構造としてそこに仕込む。 「終わりなき再帰性」という《症状=非合理=未規定性》の枠組みに、「事後的な分析」という労働行為をもって同一化する。 終わりなき再帰性という《症状=過剰性》を、「遅れてやってくる労働」の現場として、《自分自身》として、再帰的に生きてみる。 伝統を選ぶように、症状を選ぶ。 事後的な分析において生きられた「終わりなき再帰性」=「終わりなき分析」(

    「再帰性」という永久機関への同一化 - Freezing Point
  • 再帰性をめぐって - Freezing Point

    ひきこもりに関連する読書会チャットや斎藤環さんのイベント発言などを通じ、《再帰性》という概念が重要に思われてきた。 ▼先日のイベントで配っていただいたレジュメで少しだけこの話に触れてみたので、ほぼそのまま転載してみる。 強迫観念の枠組みとしての再帰性―――“必然性”の確認強迫 無限ループ化する再帰性:「そのつどそのつど原理的に一からすべてを選び直さなければならない」という、終わらない自他検証の強迫化。 合理的必然を追求する検証行為自身が不確実性を高めてゆく。 「再帰性の底が抜ける*1」。 ▼職業(やりたいこと)や中間集団について、「何を選んだらいいのかわからない」。 厳密に選ぼうとすればするほど分からなくなる。 「ひきこもりは、状態像そのものへの嗜癖」(斎藤環) 「ひきこもりを抜け出す理由」と、「依存症をやめる理由」は似通う。 その状態は苦しいし、放置すれば死に至るかもしれないが、逸脱とさ

    再帰性をめぐって - Freezing Point
  • 2006-06-30

    最近、「再帰性」 「個別社会(中間集団、党派性)」 「個人の政治化(交渉・契約)」 というあたりを焦点にしています。 いきなり全部を論じようとしてもどうしようもないので、少しずつメモしながら考えてみます。 ▼私のblogは、まとまった意見提示や解説的なものも多いですが、多くは「考えている現場をそのまま書いてみる」ような作業になっています。 blog自体が「書きかけの研究ノート」みたいな感じ。 それでもお付き合いいただけるとうれしいです・・・ 主に「個別社会」「再帰性」に関して引用*1。  【追記: 私が自分で動画を見てのメモもご参照ください。】 強調は引用者。 【宮台真司】 そして最大の問題点は全体性を把握している人がいない点にあります。 民間企業も政治家も官僚も、生き残りをかけて各々の利にかなうアーキテクチャを入れようとしていますが、競争関係にあるが故に、誰一人として全部を見わたせないと

    2006-06-30
  • Amazon.co.jp: ネオリベラリズムの精神分析: なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書 314): 樫村愛子: 本

    Amazon.co.jp: ネオリベラリズムの精神分析: なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書 314): 樫村愛子: 本
  • ぼくたちが望んだ無縁社会 – 橘玲 公式BLOG

    宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』を興味深く読んだので、忘れないうちに感想を書いておきたい。 宇野はこので、19世紀フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィル(『アメリカのデモクラシー』)を導き手とし、私たちにはあまり馴染みのない現代ヨーロッパの政治哲学者・社会学者の議論をひもときながら、だれもが「自分らしく」生きることを追及する「〈私〉時代」のデモクラシーの可能性を論じている(以下は私なりの解釈で、宇野のの正確な要約ではない)。 18世紀の産業革命によって経済(市場)は爆発的に拡大し、ひとびとは身分制(階層社会)の桎梏から解放され、人類史上はじめて「自由」と「平等」を理想として掲げることが可能になった。近代化とは、王制(神権政治)に対する社会改革=革命運動として始まった。 ところが第二次世界大戦後、社会がより豊かになると、ひとびとの関心は〈社会〉から〈私〉へと向かいはじめる。これ

    ぼくたちが望んだ無縁社会 – 橘玲 公式BLOG
    kiku-chan
    kiku-chan 2011/01/31
    再帰的近代を説明するのに@miyadaiさんは「合せ鏡」と書いていた気が。企業のQC活動もわかり易い例かな?PDCAサイクルでカイゼンを繰り返すうちに以前なら気にならなかったような問題が大きな問題に感じられるようになる
  • asahi.com(朝日新聞社):「個人化」の不安 日本にも 社会学者ベック氏、初来日 - 文化トピックス - 文化

    「個人化」の不安 日にも 社会学者ベック氏、初来日(1/2ページ)2010年11月11日15時41分 Ulrich Beck バンベルク大学教授などを経て、1992年、ミュンヘン大学教授に。リスク社会、コスモポリタン化などの分析概念を提示し、広く影響を与えた。邦訳された著書に『ナショナリズムの超克』、共著『再帰的近代化』など。 「リスク社会」などのユニークな分析概念を提示したことで知られるドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック氏(66)が、初めて来日した。1986年、チェルノブイリ事故がもたらした衝撃下で世界的なリスクの登場に警鐘を鳴らしてから、間もなく四半世紀。日に降り立った世界的研究者は、アジアをも巻き込む「個人化」の深化に注意を促した。 ■リスク社会化と同時進行 産業化が「成功」した結果として、原発事故に象徴されるような、予測することも保障することも不可能な世界的リスクが登場してきた

  • 自己啓発に抗してこの再帰的近代に「私」を守るために - あままこのブログ

    フェミニスト記-801 Feminist Diary- ↑を読んで考えたことをなんとなーくメモ 元々「自分史」って、社会から「自己=私」を守るためのものだった。 上記の記事では、企業が個人に「自分語り」を要求する、その際に「自分史」の再構築が求められ、それが就活のキツさの一因となっているっていうことが言われているよね。 まーそれは確かに正しいんだろうけど、しかし上記の記事はそこから「内面」を語ることや、「自己」を語ること全般が嫌悪すべきであるかのように言われていて、そこがちょっと違和感があった。*1 とゆーのもさ、もともと「自分史」とかを語ることによって「自己=私」を再構築しようっていうのは、社会から「私」を守るために始められたことだったわけじゃん。 これは、多分僕なんかよりフェミニストのid:nagano_haruさんの方がよっぽど深く知ってることなんだろうけど、元々「自分史」っていう

    自己啓発に抗してこの再帰的近代に「私」を守るために - あままこのブログ
    kiku-chan
    kiku-chan 2010/01/26
    少なくとも、「就活で失敗したら人生終了」みたいな考え方に支配されるような所に、学生の大半が追い込まれているようにも思う
  • なぜ、「働く」とこと「内面」がここまで結び付けられるのか? - 隠フェミニスト記

    日記サブプライムとかいうやつのあとに、とうとう日も若年層の雇用が危なくなる国の仲間入り?していますね。そこで、既得権益どうのこうのは別にどうでもいいや。何かとの対立を煽って気が済むのならばやればいいんじゃない? それよりも、私が憤りを感じるのは、企業が労働者を採用するときの「自己PR」をどんどん先鋭化させていくところだ。 人間が他者に侵害されてはならない、「啓発」も「啓蒙」もそう簡単に許してはならない「ココロ」のありようを審査しようとする就活とは何なのか? エントリーシートを書くために自分史を再構築する 今の就活の企業向け「自分語り」を無理やり構築しなければならない。大学の新卒組は3年生ぐらいから、エントリーシートを書くために、小学校一年生から自分史をさかのぼり、企業にアピールできる部分を抽出し、「自分はこんな人間です」という漠然とした疑問に企業が喜ぶ自己像を作り上げる作業をする。 対企

    kiku-chan
    kiku-chan 2010/01/25
    「啓発」や「啓蒙」された「自己」が晴れて採用され、就職した企業で対面する職場の内情は就活時に見せられた姿とは違って見えたりする(たいして立派なもんでもない)のでは?と思う。そりゃ早期離職するよと
  • MIYADAI.com Blog - 全体性の消失─IT化に最も脆弱な日本社会─【後半】

    [前半から続く](前半の「続きを読む」にアップされた文章につながります] 【ソーシャル・デザインに必要な概念セット】 ■〈システム〉と〈生活世界〉の関係を確認します。〈システム〉ではデニーズ的アメニティが提供されるのに対し、〈生活世界〉では地元商店的アニメティが提供されます。前者は「役割&マニュアル」優位な関係性で、後者は「善意&自発性」優位の関係です。だから前者は匿名的・入替可能で、後者は記名的・入替不能です。 ■近代化とは、〈生活世界〉で賄われて来た便益を〈システム〉に置き換える「合理化過程」。置き換え途上の段階ゆえに〈システム〉化され切らない〈生活世界〉が残っていると信じられるのが「近代過渡期」(モダン)で、置き換えが完遂して汎〈システム〉化=脱〈生活世界〉化した段階が「近代成熟期」(ポストモダン)。 ■近代化がある程度進んで、「まだ〈生活世界〉が残っている」というより「敢えて〈生活

  • まともに生きようとするからうまく生きられないのか…… - MIYADAI.com Blog

    ──────────────────────────────────────── まともに生きようとするからうまく生きられないのか。うまく生きられないからまともに生きようとするのか。両者の循環を映画『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』に見る。 ──────────────────────────────────────── ■80年代前半の私は、人格改造セミナー(別名自己啓発セミナー)に入れ上げていた。セミナーの特徴は、内的帰属にあった。不幸だとしても、不幸の原因が環境(=外部)に存在するのでなく、それを不幸として体験させる境地(=内部)があるだけだ、とするのだ。 ■当時そこにいたのは高級官僚、カタカナ職業、大学院生などエリート(の卵)たちだった。時代は既に近代成熟期=後期近代。モノの豊かさが達成され、欠乏ゆえの上昇欲求はあり得ない。だから動機づけの枯渇が問題になり、自己推進力の調達が求

  • 1