ハフポスト日本版ニュースエディター 特集「#だからひとりが好き」ディレクター News Editor, HuffPost Japan 7th December 1941: The USS Arizona sinking in a cloud of smoke after the Japanese attack on Pearl Harbor during World War II, Hawaii. (Photo by Hulton Archive/Getty Images)
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長崎県の五島列島沖の水深200メートル付近で、海底に垂直に突き刺さった状態の潜水艦など、旧日本軍の潜水艦合わせて24隻の姿を、海底探査を専門とする民間の調査チームが音波探知機で捉えました。調査にあたった専門家は「旧日本軍の潜水艦については詳しい図面がほとんど残されていないため、検証も進んでおらず、貴重な戦争遺産だ」と話しています。 その結果、海底に垂直に突き刺さったり、海底に横たわったりしている24隻の潜水艦の姿を音波探知機で捉えたということです。 この海域では、太平洋戦争の終戦の翌年、1946年4月にGHQ=連合国軍総司令部によって、旧日本軍の潜水艦合わせて24隻を海に沈める処分が行われていて、調査チームは、今回確認された24隻の潜水艦は、GHQによって処分された潜水艦だとしています。 調査チームでは、このうち1隻について、「伊402」という名前の潜水艦だと特定し、残りの潜水艦については
太平洋戦争の終結を知らないまま、30年近くフィリピンのジャングルに潜伏を続けた旧日本陸軍の元少尉、小野田寛郎さん。1974年、小野田さんが日本に帰国したときは、日本中が沸き立ちました。 小野田さんの帰国を巡って、日本とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていたことが、外交文書から新たに分かりました。さらに、この交渉を経てフィリピン側に支払われた3億円の資金を巡って知られざる事実が浮かび上がってきました。(国際放送局 照井隆文記者、広島放送局 関根尚哉記者) 残留日本兵 小野田寛郎さん 7月23日、日本とフィリピンは、国交正常化から60年を迎えました。太平洋戦争末期、最も過酷な戦場の1つとなったフィリピン。日本人50万人余りが死亡、100万人を超すフィリピン人が犠牲になったと言われています。 当時22歳だった小野田寛郎少尉は戦争が終わったことを信じず、3人の仲間とともに、フィリピンのジ
リンク 日刊SPA! 『艦これ』人気キャラ・駆逐艦「雷」に隠された感動エピソード | 日刊SPA! 12月8日は太平洋戦争の開戦日で今年で74年となるが、「昭和は遠くなりにけり」。真珠湾攻撃の日でもあるが、大日本帝国海軍といえば、艦艇を美少女キャラクターに擬人化したオンライン海戦ゲーム『艦隊これくしょん』(通称「艦これ」)のほうが認知度が高く、来年には映画も公開予定だ。 『艦これ』にはあの戦艦「大和」や空母「赤城」も登場するが、その中で元気活発で母性あふれる少女キャラとしてプレイヤーに人気なのが駆逐艦「雷」(いかずち)である。 実はこの「雷」のキャラ設定には、実在の駆逐艦「雷」の太平洋戦争での秘話が投影 舞扇 @mahonoyumiya 駆逐艦「雷」に隠された感動エピソード a.msn.com/01/ja-jp/AAgba… 世界中で読んでいただきたい。撃沈した敵兵441名救助!日本兵は武
追悼! 水木しげるが描いていたラバウルの戦争体験と慰安婦…「80人の兵隊を相手に…あれはやっぱり地獄だ」 『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家・水木しげるが、今朝、多臓器不全のため都内の病院で亡くなった。93歳だった。 1922(大正11)年生まれの水木は、1942年、20歳の秋、兵庫・西宮で徴兵検査を受け、近眼のため乙種合格となった。今年5月に、水木が出征前に記した手記が発見され、文芸誌「新潮」(新潮社)に掲載、話題になったことは記憶に新しい。手記は断片的ではあるが、哲学・芸術に想いをめぐらせた思索的なものだった。そして、その後戦地を目前としての死生観が記されていた。 〈毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。今は考へる事すらゆるされない時代だ。 画家だらうと哲学者だらうと文学者だらうと労働者だらうと、土色一色にぬられて死場へ送られる時代だ。 人を一塊の土くれにする時代だ
【2023/12/20】【更新】まとめ作成時のツイートの取得や投稿にエラーが表示される場合がありましたが、現在復旧しており正常にご利用いただけます。ご迷惑おかけいたしました。
パリで起きた同時多発テロ事件で、現地メディアが自爆テロ実行犯を「kamikaze」(カミカズ)=カミカゼの仏語風発音=と表現していることに、語源となった神風特攻隊の元隊員から憤りの声が上がっている。命をなげうち、祖国を守ろうとした特攻と、無辜(むこ)の民間人を犠牲にするテロを同一視するような報道に、元隊員は「国のために戦死した仲間は、テロリストとは全く異なる」と反発している。 「日本をなんとか救おうと、愛国心の一念から仲間は飛び立ち、命をささげた。テロと特攻を一緒にするのは戦友に対する侮辱であり、残念至極だ」 福岡県豊前市の末吉初男さん(88)は17日、産経新聞の取材にこう語った。 末吉さんは16歳で陸軍少年飛行兵に応募し、昭和18年に陸軍飛行学校に入校した。18歳だった20年4月28日、特攻隊として、4機5人と台湾の飛行場から飛び立ったが、約1時間後、隊長機にトラブルが起きて沖縄・石垣島
「嫌韓」なんて言葉が生まれる今日この頃、日本はいつまで韓国に謝罪し続ければよいのか?素朴な疑問に、思想家にして武道家、相談の達人、ウチダ先生が率直に答えます。読者諸兄のご相談をお待ちしております。 文:内田 樹 イラスト:須山奈津希 日韓関係がこじれる中、韓国が日本に対して謝罪を要求している、と報道されています。テレビで昔、高市早苗が、「第二次大戦のとき、私は生まれていないので、私には戦争責任はまったくない」という趣旨の発言をしていました。そう言い切るのはどうかとも思いますが、永遠に謝罪し続けなければいけない、と考えるのもつらいです。 歴史的な事情はいろいろあるんですが、一言で言うと、日本は「負けすぎた」ということです。ただの敗戦国じゃない。こんなに負けた国はないぐらい負けた。負けた場合の備えをまったくしていないで負けた。底抜けの敗戦国なんです。 戦争なんて、勝ったり負けたりするものです。
死を覚悟し、戦闘機で敵艦隊に体当たりする「神風特別攻撃」―。いわゆる「特攻」。太平洋戦争末期、戦況悪化に伴い、日本海軍連合艦隊司令部は特攻主体の作戦を決定し、米軍の沖縄上陸に備えた。その中で、特攻を拒否し、「正攻法」を訴えた航空部隊があった。焼津市の藤枝海軍航空基地(現・航空自衛隊静浜基地)で誕生した「芙蓉(ふよう)部隊」。指揮官の美濃部正少佐(故人)は「夜間攻撃の合理性」を説き、出撃を繰り返した。美濃部元少佐が晩年に書き上げた自分史を元に、関係者に話を聞いた。 「僕らは分かっていたんだ」。突き刺さるような日が降り注ぐ5月中旬。航空自衛隊静浜基地近くの飲食店で男性はゆっくりと話し始めた。 芙蓉部隊で戦闘機の整備に当たった槙田崇宏さん(89)=静岡市清水区=。幾多の戦火を乗り越え、戦後は清水市(現静岡市)の市議も務めた。現在は戦友会「芙蓉会」の4代目会長だ。 何が分かっていたのか―。「
国内の歴史研究者で作る学会などのうち16の団体が、いわゆる従軍慰安婦の問題について問題を記憶にとどめ、過ちを繰り返さない姿勢が求められるとする声明を発表しました。 声明では、問題の背景には植民地支配や差別など不平等で不公正な構造が存在していたと指摘しています。 そして、「問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するのに等しい。今、求められているのは歴史研究や教育を通して問題を記憶にとどめ、過ちを繰り返さない姿勢だ」と指摘しています。 声明を発表した団体の1つ、「歴史学研究会」の委員長を務める信州大学の久保亨教授は、「声明には数千人の歴史研究者の意志が反映されている。この声明を基に今後の議論が行われることを期待している」と述べました。
パプアニューギニアのニューブリテン島北部のラバウルは、かつて東ニューブリテン州の州都として最も栄えた街だった。太平洋戦争中に旧日本軍が戦略拠点を置いたことからわかるように、良港のシンプソン湾と背後の高地は、自然の要塞(ようさい)となっている。 だが、「南太平洋の真珠」と呼ばるほど美しかったラバウルの街は、1994年9月に起きた火山の爆発で壊滅してしまった。州都は20キロほど離れたココポへ移され、2万人近かった人口は現在、数千人程度にまで激減。確かに今回、ラバウルの街中には人気がなく、泊まったのもココポだった。 州都をまるまるのみ込んだ21年前の噴火とは、どんなものだったのだろう。当時、私は朝日新聞の名古屋社会部にいたはずだが、「ラバウルの大噴火」のニュースは覚えていない。朝日新聞のデータベースを見ると、当時のシドニー特派員は現地入りしなかったようだ。 他の文献を調べてみると、二つの火山がほ
平沢勝栄という、警察官僚出身の自民党衆議院議員がいる。現在は党の総務副会長という要職にあるが、この議員にまつわる逸話で最も知られているのは東大法学部の学生時代、安倍晋三首相の家庭教師をしていたという経歴かもしれない。本人によれば当時、よく首相を「定規でたたいた」とかで、「私が教えなかったら成蹊大学も受からなかった」というから、頭の出来がよほど悪かったのだろう。 首相本人は、祖父の岸信介元首相の「DNA」を口にすることがあるようだが、東大の歴史に残る秀才と呼ばれた祖父と比較するべくもないのは間違いなさそうだ。しかも後援会向けパンフレットなどに「南カリフォルニア大学(USC)政治学科2年間留学」と記していながら、同大によると在学していたのは1年だけで、学士の資格も取っていなかった。学歴詐称まがいだが、永田町界隈では「留学といいながら遊びほう けていた」というのが定説になっている。 無論、学歴や
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