Webライターの木下です。 第3回からは戦後の施設の歴史についてです。 敗戦の翌年の1946年、日本は、天皇を主権者とする「大日本帝国憲法」から国民を主権者とする「日本国憲法」へと国の根本を改めました。戦前においては、国家の役に立つ臣民を育成することが国家の役割でしたが、戦後においてはすべての国民が文化的な生活を送り、幸せを追求できるように、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上・増進に努めるのが国家の役割に変わります。 戦前においては、労働力としても兵力としても期待されていなかった知的障害者は、一部の障害の軽い者だけが教育を受けることができただけで、ほとんどの者は社会参加の道は閉ざされ、片隅に追いやられていました。しかし、戦後においては、福祉の対象として意識され、法律的・制度的な福祉措置が講じられていくようになります。 最初に手を差し伸べられたのは、戦前同様に子どもたちでした。 戦争孤児
滝乃川学園のような民間施設は、公的な制度も支援もなく、経営的には苦難の連続でした。しかし、滝乃川学園の活動を知る者が石井のもとを訪れ、弟子入りするなどして個人指導を受けるようになり、そうして感化を受けたものたちによって、全国に滝乃川学園に続く、知的障害児施設がつくられていきました。 これらの施設の多くは、石井亮一と滝乃川学園を何らかのモデルとして設立・運営されたもので、知的障害児に対しては慈愛の精神だけではなく、生理学に基づく教育実践を必要するという精神が受け継がれ、治療的な教育法を確立していきました。 滝乃川学園「石井亮一・筆子記念館」 昭和初期に建てられ、当時は教室などとして利用され、2階は講堂になっています。 戦前においては、知的障害者に対する国の福祉政策はほぼ無策と言える状態で、これらの民間施設のみが細々とその救済に当たっていました。しかし、収容人数はすべての施設を合わせても400
明日の授業で活用可能、一人一台端末と『BEE-Together』で実現する新しい「キャリア教育」「探究学習」の形とは? 【協賛企画】CIE(一般社団法人 次世代教育・産官学民連携機構) 特別支援学校で実施されている「自立活動」についても、高校の通級指導で行う。例えば、発達障害や難聴などの子が別室で自分の障害の特性を知ったり、他者とのコミュニケーションの取り方を学んだりする。ここでの学習を卒業単位に組み入れることも可能とした。 通級指導に加えて、特別な指導が必要な場合は、障害に合わせて、補充指導ができるように、と明記された。 また高校に入学する前に、中学校在籍時との連携の必要性を強調。中学校での指導状況や支援内容のほか、保護者の意見を参考にするよう要望した。こうした資料や意見を参考に、教育支援計画の作成を促した。 高校の中には、校長をリーダーとした検討委員会を設けるよう求めた。特別支援コーデ
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