■解説 障害者らに不妊手術を強制した優生保護法(1948~96年)の成立過程をめぐる連合国軍総司令部(GHQ)の記録からは、日本が「主権」を取り戻した途端、さらに差別意識をあおる法律に塗り替えた真相も見えてきた。 52年にサンフランシスコ講和条約が発効してGHQの廃止が決まると、日本は、GHQに厳密化を求められた「遺伝性」を無視し、強制不妊の対象を、遺伝性を問わず精神・知的障害者に広げた。その条文には、GHQの指摘を受けて「遺伝性疾患」を対象に強制不妊を認めた条文に追加した「訴訟を起こす権利」の記載もなかった。 ただ、GHQ側も医学的根拠の明確化などを強く求めながら、強制不妊そのものは否定しなかった。当時、米国でも多くの州で日本ほど対象は広くはないものの強制不妊を認める法律はあった。「戦後日本の民主化」を掲げた米国の人権意識にも底が見える。 国の統計によると、強制不妊の被害者は1万6475
旧優生保護法(1948~96年)に基づき知的障害者らが不妊手術を強制された問題で、優生手術を行った経験のある北海道内の男性産婦人科医(83)が読売新聞の取材に応じた。 北海道で全国最多の2593人が手術を受けたことについて、「国の指示に応えることで支援を手厚くしてもらおうという思惑があったのではないか」と当時の行政対応に疑問を投げかけた。 男性医師は1967年、当時勤務していた公立病院で、知的障害のある20歳前後の女性の両親から手術の相談を受けた。女性は耳も不自由で、自分の意思を伝えられなかったため、手術の適否を決める優生保護審査会は、本人の同意が不要な同法4条を適用し、男性医師を執刀医に指定した。
障害者らに不妊手術を強制した旧優生保護法(1948~96年)は、保守・革新双方の国会議員が口を極めて障害者を差別しながら提案し、批判なく全会一致で成立したことが議事録から判明した。法施行後は予算増を迫るなどし、議員提案で母体保護法へ改定した際も旧法への反省はなかった。法成立前後から今年4月までの約70年間に同法や優生思想を巡る衆参両院での質疑は、少なくとも計648の本会議・委員会であったが、補償や謝罪に関しては法改定後の22年間で10件と関心の低さを印象づけた。 議事録によると、優生保護法案は47年12月の第1回国会で社会党女性議員が「他の多くの法案と違い議員提出であることに意義がある」と強調。40年制定の国民優生法の手術が任意だったため「悪質の遺伝防止の目的を達成することがほとんどできなかった」と強制を認める優生保護法を提案した。
かつての優生保護法のもと、障害者らに不妊手術が強制された問題で、北海道庁が1950年代、保健所に対し「(対象者は)4代にわたって調査されたい」とする文書を送付していたことがわかった。「性格」などを調べるよう求めたり、対象者の近所での聞き込みを促したりもしており、道庁の手術への積極姿勢が、全国最多の手術数につながったとみられる。 文書は道庁が保健所長に宛てた「優生手術にかかる遺伝調査要領について」(52年9月15日)。朝日新聞が情報公開請求し、道が開示した。強制不妊手術の判断に必要な「遺伝調査」の手順を詳述し、対象者の「4親等」までの全家族について、「性格について」「身体状況」「知能について」の3項目を調べるよう求めている。 それぞれについて記入例もあった。性格についての項目では「幼時は内気であった」「性格異常が疑われる」「精神に異常を認める」、知能では「在学中に級長、首席で通した」などと広
旧優生保護法(1948~96年)の下で、障害者らへ強制的な不妊手術が行われていた問題を巡り、各地で検証に乗り出す動きが出ている。こうした中、県が1956年、障害者への手術費用の自己負担分を補助する規則を定めていたことがわかった。黒岩祐治知事は制度の詳細に関する調査を指示した。【石塚淳子】 規則は、県立公文書館の保存文書の中に記載があった。文書は、県の衛生部長(当時)が56年8月3日、政令市衛生部局長や保健所長らに宛てた文書。52年改正の旧優生保護法の12条は、遺伝性ではない障害者に対し、医師は家族らの同意で強制不妊手術(優生手術)の適否の審査を申請できるとしていたが、施行後の手術件数について「僅(わず)かに十件余に過ぎず、手術の必要性が十分普及されていない」と指摘。県の「優生手術費補助規則」を施行して普及を図ると記し、行政側から精神科や神経科の診療施設に規則を紹介するよう求めている。 規則
「不妊手術されたなんて、誰にも言えなかった」。10代後半で強制不妊手術を受けたという札幌市の小島喜久夫さん(76)が語り始めた。若いころに受けた差別、子どもをつくれなくなった悔しさ、妻に隠し通したつらさ、今も続く腹部の痛み--幾重にも苦しんだ人生を振り返った。【安達恒太郎】 周囲から差別 50年以上たっても、忘れられない言葉がある。10代後半で精神科に強制入院させられ、「優生手術をする」と聞き慣れない言葉を口にした看護師に聞き返したときのことだ。「あんたたちみたいなのが子どもをつくったら大変だから」。院内には同年代の若者らがいた。同じ不妊手術を強制されたとみられる「あんたたち」だった。 小島さんは生後まもなく、北海道石狩町(石狩市)の農家に引き取られた。子どもがいなかった養父母との関係は、弟たちが生まれると冷え込んだ。周囲から「もらい子」などと差別を受けた。中学卒業後、印刷会社に就職したが
宮城県は、旧優生保護法(1948~96年)に基づき不妊手術を強いられた本人にも開示していなかった県公文書館の保存資料について、本人に限って特例的に開示を認めることを決めた。同館保存の不妊手術に関する審査会議事録などの資料は「人権問題に関する個人情報がある」として100年以上の非開示期間が設定されていたため、本人が閲覧を請求しても存命中は事実上見ることができず、県も内容を把握していなかった。【遠藤大志、岩崎歩】 県は859人分の手術記録が残っていたと発表しているが、公文書館の保存資料は含まれておらず、今後の確認で増える見通し。非開示期間が同様に長期にわたる公文書館は埼玉県など他にもあり、宮城県の判断は全国に影響を与えそうだ。
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