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建築に関するMyPLBのブックマーク (19)

  • 増田友也

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    MyPLB 2018/09/02
    展覧会|Exhibition 2015.10.26 - 2015.12.12 生誕100周年記念建築作品展 増田友也
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶3 市民会館 時代を映す意匠設計|徳島の話題|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    鳴門市民会館と市役所庁舎が造られた1960年代初頭は、日が高度成長期の入り口に差し掛かり、鳴門市でも四架橋の建設が具体性を帯びてきた時期と重なる。 62年には全国総合開発計画(全総)が閣議決定され、工場の地方分散を狙った新産業都市の地域指定が過熱する。鳴門市を含む徳島地区が指定されることが決まったのは63年7月。架橋と工場誘致への期待から、当時の鳴門は高揚感に包まれていた。 市民会館(61年)と市役所庁舎(63年)はそんな時代に生まれた。これら市の中核施設の設計を続けて任された増田友也(1914~81年)は、市役所完成時に市が作ったパンフレットで、二つの建物に込めた思いをこう記している。 「われわれの意図は、この新しい敷地に市の飛躍を視覚的に意味づけ、象徴化するところの全く新しい景観を展開することにあった。端的には、それは風景の創造にほかならなかった」 市民会館や市役所庁舎が建て

    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶3 市民会館 時代を映す意匠設計|徳島の話題|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    市が増田に求めたのは低コスト設計。増田の指導の下に市民会館の図面を引いたのは、当時25歳の満野久(82)=京都市=である
  • 連載保存か解体か鳴門に残る増田建築 ▶︎13 建物の寿命 耐用年数 再考の余地|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    【上】築4年時点の鳴門市役所庁舎。時代精神を映し出すモダニズム建築として高い評価を受けている(1967年9月発行の鳴門市市勢要覧より)【下】丹下健三が設計した香川県庁舎の館㊧と東館。新旧庁舎が並ぶ姿が時代の変遷を物語る=高松市 高度成長期に建てられた公共建築は、その多くが取り壊される運命をたどっている。理由は耐震性不足や老朽化。増田友也(1914~81年)が手掛けた築55年の鳴門市役所庁舎(63年)も、保存か解体かの岐路に立っている。 6月5日に鳴門市役所で開かれた、新庁舎建設基計画検討委員会の初会合。ここで市は、現庁舎が抱える課題として、<1>耐震性能不足<2>施設・設備の老朽化<3>業務量の増加に伴う狭あい化<4>庁舎の分散—の4点を挙げた。 新庁舎を建設すれば、これらの課題は一気に解決できる。これに異論はないはずだ。議論の焦点は、新庁舎を建てる際、モダニズム建築として高い評価

    連載保存か解体か鳴門に残る増田建築 ▶︎13 建物の寿命 耐用年数 再考の余地|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    現本庁舎を残す2棟案が建て替え案より14億5千万円も高くなっているのは、25年後に築80年を迎える現本庁舎の建て替え費用が含まれているからである/コンクリートの中性化/耐震改修を決めた香川県庁舎東館
  • 色あせぬモダニズム |徳島ニュース|徳島新聞デジタル

    のどかな風景が広がる鳴門市瀬戸町の島田島。青い空、山の緑とのコントラストが際立つ白いコンクリート造りの島田小学校が威風を放つ。モダニズム建築の権威と呼ばれた元京都大教授増田友也(1914~81年)の代表作の一つで、同校の創立100周年を機に1981年に建て替えられた。 山の傾斜に合わせた階段状の建築はまるで要塞(ようさい)のようで、完成当時は「これが学校なのか」と住民が驚いたという。 校内も凝った造りで、増田作品の特徴が随所に詰まっている。校舎入り口の天井は低く、通路を抜けた先にあるロビーを広く感じさせる。 縦横の枠で仕切った格子状のガラス窓に加え、各教室には天井から屋上のテラスまで抜ける円形の吹き抜けを作ることで自然光を取り込む。窓に比べて3倍の光量が入るため、壇上で学習発表する児童を照らすスポットライトのようだ。 2010年の休校以来、施設を管理する宮守男さん(72)=同市瀬戸町大島

    色あせぬモダニズム |徳島ニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    鳴門市瀬戸町の島田島。青い空、山の緑とのコントラストが際立つ白いコンクリート造りの島田小学校が威風を放つ。モダニズム建築の権威と呼ばれた元京都大教授増田友也(1914~81年)の代表作の一つで
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶︎16 ドコモモ・ジャパン松隈洋代表に聞く(下)残せば次世代の財産|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    建築の価値を市民に理解してもらうためには何が必要か。モダニズム建築の記録・保存を行う国際学術組織DOCOMOMO日支部(ドコモモ・ジャパン)代表の松隈洋京都工芸繊維大教授(近代建築史)に、方策を聞いた。 ―建築の価値がどこにあるのか、一般市民が理解するのはなかなか難しいように思います。 ある建築ができた時に、なぜこの建築がこんな形をして生まれてきたのかを知る手掛かりは、たぶん建築界の外の人にはない。だから、誰が造ったか知らない建築が突然目の前に誕生するという状況になっている。 近代建築がどんどん壊されている現状を見ていると、建築界の中の人が社会に対して「この建築はこういうことで生まれた」ということをきちんと伝えてこなかった問題が、全部出てきている気がする。大学で建築を学ばない限り建築が見えてこないという環境は、この国の文化にとって相当まずい。 小学校の家庭科で、住まいや街、都市、建築の話

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    MyPLB 2018/09/01
    誰が造ったか知らない建築が突然目の前に誕生するという状況/大学で建築を学ばない限り建築が見えてこないという環境は、この国の文化にとって相当まずい/「リビング・ヘリテージ」と「シビックプライド」
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶︎15 ドコモモ・ジャパン松隈洋代表に聞く(上)20世紀の遺産 未来へ|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    20世紀の新しい建築スタイルを示したモダニズム建築が、各地で取り壊されている。増田友也(1914~81年)が設計した鳴門市役所庁舎も、建て替え論議の真っただ中にある。この時代の建物を残す意義は何なのか。モダニズム建築の記録・保存を行う国際学術組織DOCOMOMO日支部(ドコモモ・ジャパン)代表の松隈洋京都工芸繊維大教授(近代建築史)に聞いた。2回に分けて紹介する。 ―ドコモモ・ジャパンは日の評価すべき近代建築を「日におけるモダン・ムーブメントの建築」として選定しています。モダニズム建築はとかく、レンガ造りのような旧来の様式建築と比べて「分かりにくい」と言われますが。 フランス人建築家ル・コルビュジエが世界各地に残したモダニズム建築17件が、2016年に世界文化遺産に登録された。このことは、私たちの身近な生活環境をつくってきた住宅や工場など20世紀の建築が、同じ世界遺産のパルテノン神

    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶︎15 ドコモモ・ジャパン松隈洋代表に聞く(上)20世紀の遺産 未来へ|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    モダニズム建築の記録・保存を行う国際学術組織DOCOMOMO日本支部(ドコモモ・ジャパン)代表の松隈洋京都工芸繊維大教授(近代建築史)に聞いた。
  • 連載保存か解体か鳴門に残る増田建築 ▶︎14 地域の財産観光資源化狙いPR|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    鳴門市に残る増田友也(1914~81年)の建築を学生や社会人に案内し、その魅力を伝えている人がいる。同市で建築設計事務所を構える福田頼人(45)=大麻町大谷=である。 徳島県建築士会の鳴門地域会に籍を置く福田は、2015年から増田建築の見学会を毎年企画してきた。市役所や文化会館、休校になった学校群などを見て回り、建物の見どころを参加者に説明する。15年と16年の見学会には、増田建築の設計に携わった増田門下の建築家も招いた。 「僕らは建築が好きで、わざわざ海外まで見に行ったりする。鳴門にはこんなにいい建物があるのに、なくなったら当にもったいない。そうならないためにも、一般の人にもっと関心を持ってもらいたい」 足元の名建築に光を当て、地域の財産として残したい—。それが、見学会を企画する福田の原動力になっている。参加者の感想を募ったアンケートには、うれしい言葉も並ぶ。 「素晴らしい遺産。いい形

    連載保存か解体か鳴門に残る増田建築 ▶︎14 地域の財産観光資源化狙いPR|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    戦後のモダニズム建築/市民に開かれた空間など民主主義社会を築こうとする建築表現が具現化されている。時代の移り変わりと共に消滅すべきものではなく、時代精神の証人として、保存に値する価値を持っている
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶12 最期 文化会館に思い寄せ|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    [上]鳴門市文化会館が着工する1980年前後に撮られたとみられる在りし日の増田友也(左)。右は鳴門市長の谷光次=鳴門市老人福祉センター[下]撫養川の川面にルーバーの影を映し出す鳴門市文化会館。増田友也が病床でも思いを募らせた 東京で設計事務所を開いていた当時47歳の渡部英彦(84)=横浜市=の元に、師匠の増田友也(1914~81年)から電話が入ったのは81年3月10日のことである。「渡部君、もうお別れだ」。電話口の向こうの増田は、検査で道がんが見つかったと告げた。 東京生まれの渡部は、京大建築学科を経て京大大学院修士課程を60年に修了し、東京で職に就いていた。67年には東京女子医大心臓血圧研究所の研究部棟を増田の指導の下で設計しており、増田が上京した際にもちょくちょく会う間柄だった。 増田はがんの発覚を京都の仲間にすぐ話せず、その不安を東京の渡部に受け止めてもらいたかったのだろう。渡部は

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  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶11 文化会館(下)命削った「壮大な墓」|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    着工から、1年が過ぎていた。時は1981年3月半ば。鳴門市文化会館の建設現場で工事監理をしていた河井恭一、松良洋、白砂伸夫の3人が増田友也(1914~81年)に呼ばれ、こう告げられた。 「実は、道がんなんだ。しばらくしたら東京の病院に行って現場に来られなくなるから、お前たちでちゃんとやってくれ」 工事監理の責任者だった河井恭一(71)=大阪府富田林市=は、この時初めて増田ががんを患っていたことを知る。体調が悪そうだとは感じていたが、まさかがんにかかっていたとは思いもしなかった。何より増田は検査の類いが嫌いで、がんの発覚もこの直前だった可能性がある。 文化会館の設計チーフだった前田忠直(74)=京都市、京都大名誉教授=は、この81年3月からスイス連邦工科大に留学している。日をたつ前、京大農学部正門横のアパートで住んでいた増田の所にあいさつに行くと、増田は別れ際、珍しく今出川通りまで見送

    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶11 文化会館(下)命削った「壮大な墓」|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    食道がんとの告白は文化会館着工から1年が過ぎたあと。中断や縮小を経て計3回に及んだ文化会館の実施設計。現場監理の白砂伸夫はこけら落としに第九を推す。鳴門が日本初演の地であることを知っていた。
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶10 文化会館(上)悩み抜いた渾身の作|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    増田友也(1914~81年)の遺作となった鳴門市文化会館は、徳島県内でもひときわ高い評価を得ている建物である。県外の建築ファンがたびたび見学に訪れ、県内の建築家の多くも「徳島で最も好きな建物」に挙げている。旧建設省が98年に選定した「公共建築百選」では、県内から唯一この建物が選ばれた。 外観は、増田の建築に特徴的なコンクリート打ち放しで、東側や北側の壁にデザインされた縦のルーバーが建物の印象を支配している。1・2メートル間隔で並んだコン クリートの羽板が厳格なリズムを刻み、室内に入る光にも変化が出るように計算されている。 撫養川の対岸から眺めると、ヨーロッパから切り取ってきたような建築的風景を創り出しているが、直近の耐震診断では「震度6強以上の地震で倒壊する危険性が高い」とされた。鳴門市は年度中にも保存か解体かの検討に入るという。 文化会館は80年3月に着工し、82年5月に落成式を迎えた

    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶10 文化会館(上)悩み抜いた渾身の作|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    遺作となった鳴門市文化会館は、徳島県内でもひときわ高い評価を得ている建物/旧建設省が98年に選定した「公共建築百選」/工事が始まっても、より良きものを求めて悩み、もがき、ぎりぎりまで図面に修正を加えた
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶9 2人の師 メモに残る感謝の念|徳島の話題,文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    メモに残る感謝の念 増田友也(1914~81年)には、生涯で2人の師がいた。1人は京大建築学科の恩師、森田慶一(1895~1983年)。もう1人は、鳴門市長を59年から7期28年務めた谷光次(1907~2002年)である。 増田が2人を師と仰いでいたことは、晩年に書かれた1枚のメモから裏付けられる。「増田友也生誕100周年記念建築作品展」が京都工芸繊維大で開かれた15年、同大教授の松隈洋(60)らが遺族から借りた増田の所蔵資料の中に、そのメモはあった。 書かれたのは1979年9月7日。増田が京大教授を定年退官して1年5カ月余りが過ぎた頃である。増田はこれまでの来し方に思いを巡らせたのだろう。 「人にとってもっとも偉大な師匠というのは その人に何ごとかを教え知らしめられたというような人物の存在ではない そのような師匠が居るというただそれだけのことで偉大なのだ 森田先生、谷市長のような存在なの

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    MyPLB 2018/09/01
    増田友也(1914~81年)には、生涯で2人の師がいた。1人は京大建築学科の恩師、森田慶一(1895~1983年)。もう1人は、鳴門市長を59年から7期28年務めた谷光次(1907~2002年)である
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶8  vs.丹下 異なる作品の方向性|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    東の丹下、西の増田—。京都大教授で建築家でもあった増田友也(1914~81年)がメディアで紹介されるとき、この修辞がよく使われる。丹下とは、戦後日の建築界に大きな足跡を残した東大教授で建築家の丹下健三(1913~2005年)。生まれが1年違いの2人は、東京と京都という違った環境で同時代を生きてきた。 「東の丹下—」という言葉は、いつごろ、誰が言い始めたのか。増田が活躍していた頃の建築雑誌をめくっても、この修辞はどこにも出てこない。ただ、増田が京大退官後の80年から教授を務めていた福山大では、丹下と肩を並べる建築家という目で学生たちが増田を見ていたようだ。 80年当時、福山大建築学科の2年生だった樋口泰昌(57)=岡山県津山市=は「東の丹下、西の増田という話は誰かがしていた」と言う。「丹下さんは造形的な作品を得意とし、増田さんは哲学的思考に基づく建築論が専門。タイプが違うことも聞いていた」

    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶8  vs.丹下 異なる作品の方向性|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    福山大では、丹下と肩を並べる建築家という目で学生たちが増田を見ていたようだ。  80年当時、福山大建築学科の2年生だった樋口泰昌(57)=岡山県津山市=は「東の丹下、西の増田という話は誰かがしていた」
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶7 人物像 同居する「聖」と「俗」|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    鳴門に多くの建築作品を残した増田友也(1914~81年)は、鳴門海峡を挟んで向き合う淡路島南部の兵庫県三原郡八木村(現・南あわじ市)に生まれた。 日中戦争さなかの39年に京都帝大建築学科を卒業し、満州炭鉱工業会社に就職して戦中期を大陸で過ごす。戦後、シベリア抑留を経験したとの説もあるが、増田に近い関係者は「中国で復興の手伝いなどをしていたようだ」として、抑留を否定している。 増田は終戦から49年に帰国するまでの間の体験をほとんど語っておらず、真相は分からない。ただ、目の前で多くの人が無残に殺されていく場面に身を置いた経験があるようで、これがその後の生き方にも影響を与えたと思われる。 郷里に引き揚げた増田は周囲の勧めもあり、自身の恩師で京大建築学科教授の森田慶一(1895~1983年)の所に、就職口がないかと訪ねて行ったようだ。森田は教授仲間の村田治郎(1895~1985年)とも相談したのだ

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    MyPLB 2018/09/01
    増田友也の生い立ち、人物像、エピソード
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶6 目指したもの 人と建物 語らう空間|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    増田友也(1914~81年)には、建築設計の実務を手伝うスタッフが大勢いた。その多くは「マスケン」と呼ばれた増田研究室に属する大学院生や研究生で、増田の単独設計による50年代の一部の作品を除くと、設計作業のほとんどはチームで行われている。 現在は京都市南西部の桂キャンパスに移転している京大建築学科がまだ吉田キャンパスの部構内にあった頃、増田研究室の設計アトリエ(製図室)は、構内北東に立つ建築学教室館裏にあった。 35年完成の旧写真アトリエを改装した小さなコンクリート打ち放しの建物で、増田は助教授になった58年ごろからここを拠点に学生らの設計指導に当たっている。 チーム増田の設計作業はどのように始まるのか。複数の門下生によると、まず、増田がデザインの方向性を決め、スケッチまたは言葉によって大まかなイメージをスタッフに伝える。スタッフは増田の指示を咀嚼(そしゃく)しながら図面を引き、それを

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    MyPLB 2018/09/01
    増田が目指していたのは、その地で生きる人々にとっての世界の一部となる、そんな建築だったと考えられる/豊岡市民会館(兵庫県、71年) の落成記念講演で「建築とはひとつの全体である」という言葉を何度も使っている
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶︎5 国際学術組織の評価 市民生活の舞台提供|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    モダニズム建築の記録・保存を行う国際学術組織DOCOMOMO日支部(ドコモモ・ジャパン)が、鳴門市民会館と市役所庁舎を「日におけるモダン・ムーブメント建築」に選定したのは、2008年度である。ドコモモ選定物件は現在、国内で208を数えるが、鳴門の物件は140番目に選ばれた。 徳島県内での選定物件はこの二つだけで、増田友也(1914~81年)の全建築作品の中でも、京都大学総合体育館(72年)と合わせて3件しかない。 鳴門の物件をドコモモに推薦したのは増田の門下生ではなく、鳴門に01年から06年まで住んでいた加藤雅久(54)=名古屋市、居住技術研究所主宰=だった。加藤は、解体される歴史的建築物などを訪ねて建築材料の変遷を調べている研究者で、ドコモモの国内登録専門委員でもある。 その時期、仕事の関係で加藤はたまたま鳴門に住むことになり、増田建築と出合った。当初はそれほど意識はしなかった

    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶︎5 国際学術組織の評価 市民生活の舞台提供|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    この建物が新しい都市生活の舞台を提供し、それが市民に受け入れられている特徴的な例/兼松紘一郎(78)/東京都新宿区/が、鳴門の増田物件を審査した際の様子https://blog.goo.ne.jp/penkou/e/0a84f189c6f8f5fc4bd334f0d3e94191
  • 四国建築旅(4) 鳴門のモダニズム建築Ⅰ・増田友也の鳴門市庁舎と市民会館 - 日々・from an architect

    DOCOMOMOに選定した四国のモダニズム建築は、日土小学校、香川県庁舎、坂出市人工土地、海のギャラリー、それにブリッジで接続された鳴門市庁舎と市民会館の公共建築群である。いずれも戦後に建てられた建築だ。 選定建築は2008年度選定を加えると145選になった。 どの建築も魅力的で、技術へのトライを含めた歴史的な価値や、その地域での位置付け、更に設計した建築家の軌跡を考えるとその存在はかけがえがない。しかし選定に関わった僕たち各自が全ての建築を見てはいない。しかし見ないと当然のことながら実感を得られない。 竣工した建築のコンペの1次審査が通って8月4日に現場審査のある藤さんのスケジュールや飛行機の都合(如何に安いチケットを取れるかが僕たちの大問題・苦笑)を調整し、日土小学校見学・シンポを挟んだので、四国を2回も横断する羽目になった。高速道路通行料が割引になったのはありがたい。 でも四国は広

    四国建築旅(4) 鳴門のモダニズム建築Ⅰ・増田友也の鳴門市庁舎と市民会館 - 日々・from an architect
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    MyPLB 2018/09/01
    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶︎5 国際学術組織の評価 市民生活の舞台提供|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞 http://www.topics.or.jp/articles/-/59715 2018年7月3日
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶︎4 市役所本庁舎 先駆的構造にトライ|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    公共施設など大きな建物の設計は、デザインを担当する意匠設計者と、柱や梁などの強度を決める構造設計者が協力して進める。 デザインに優れた建築の裏には、優れた構造設計家がいる。丹下健三(1913~2005年)が構造設計家の坪井善勝(1907~90年)と組んで東京五輪の舞台となった国立代々木競技場などの名作を生み出したように、60年代の増田友也(1914~81年)は、坪井の下で学んだ若林實(1921~2009年)と多くの作品で協働した。鳴門市役所庁舎もその一つである。 意匠設計者としての増田は、市役所の南北を総ガラス張りにし、その窓の割り付けに注力した。大学院生の頃に増田の家で市役所のイメージスケッチを見たという門下生の渡部英彦(84)=横浜市=は「窓の開け方を何通りも考えていた。何度も何度も書いたり消したりした鉛筆の跡があった」と明かす。 引き違いの窓と固定窓をどういう配置で割り付けるのか、

    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶︎4 市役所本庁舎 先駆的構造にトライ|文化・芸能|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    デザインに優れた建築の裏には、優れた構造設計家がいる/60年代の増田友也(1914~81年)は、坪井の下で学んだ若林實(1921~2009年)と多くの作品で協働した。鳴門市役所本庁舎もその一つである。
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶2 戦後モダニズム 民主社会の精神体現|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    増田友也(1914~81年)が鳴門市で最初に手掛けた仕事は、61年に完成した市民会館(鉄骨造り一部鉄筋コンクリート造り)である。2年後の63年には南隣に市役所庁舎(鉄筋コンクリート造り3階建て)を建て、この二つの建物を全長118メートルのオーバーブリッジでつないだ。 市民会館と市役所庁舎は、後世に残したいモダニズム建築として専門家から高い評価を受けている。モダニズム建築の記録・保存を行う国際学術組織DOCOMOMO(ドコモモ)の日支部は、2008年度にこの二つを「日におけるモダン・ムーブメント建築」に選定した。 建築特集をよく組む情報誌「カーサ・ブルータス」(マガジンハウス刊)も、15年9月発行のムック「ニッポンが誇る『モダニズム建築』」の中で、鳴門の市民会館と市役所を取り上げている。紹介文には「その造形美や素材使いなど、いずれも重要文化財級の価値ある建築」とある。 ところが、こ

    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶2 戦後モダニズム 民主社会の精神体現|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    鳴門市政策監の三木義文(61)「市役所本庁舎を仮に現地で建て替えるとなると、土地の有効利用の観点から、恐らく隣の市民会館も取り壊すことになる」/市役所の現地建て替えは、ドコモモ選定建築の二つを同時に失うこと
  • 連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶1 岐路に立つ名作 市庁舎建て替え議論|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル

    鳴門は増田建築の宝庫と言われている。市役所庁舎のほか、体育館や集会所の機能を持つ市民会館、幼小中の学校群、1600人収容のホールを備えた文化会館など、その数は19件にも上る。 増田は、設計活動を格化させた57年から亡くなる81年までの24年間に、61件の建築作品を世に送り出した。そのおよそ3分の1が鳴門に集中しており、現存する増田建築の集積度でいえば、増田の活動拠点だった京都よりも高い。 しかも鳴門には、増田の初期作品の市民 会館(61年)から、遺作となった文化会館(82年)まで、建築家としての歩みを映す各時代の建物がそろう。いわば、増田の建築と思想の変遷を身近な建物を通して知ることができるわけだ。 増田が鳴門でこれほど多くの公共建築に携わることができた背景には、59年から鳴門市長を7期28年務めた谷光次(1907~2002年)の存在がある。谷は京都帝大法学部の出身で、学部は違えど同じ

    連載「保存か解体か鳴門に残る増田建築」▶1 岐路に立つ名作 市庁舎建て替え議論|PICKUPニュース|徳島新聞デジタル
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    MyPLB 2018/09/01
    全16回/一つの自治体が特定の建築家に幾つもの公共建築を発注し続けるという、今ではあり得ない関係/競艇事業の収益を背景にした市の豊かな財政、そして谷の長期に及ぶ政治的安定
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