「残された患者はどうするのか。救ってください」 三十一日正午すぎ、東京・霞が関の環境省前。炎暑の中、水俣病不知火(しらぬい)患者会関東支部の山本昭彦さん(55)=東京都稲城市=が、マイクを手に声を振り絞った。「あたう限り(でき得る限り)の救済」を掲げた特措法の申請がこの日、打ち切られた。「救済打ち切りは被害者の差別だ。人を人として扱っていない」 「潜在患者はまだいる」と山本さんは確信している。故郷の鹿児島県で三年前に受けた健診で水俣病と分かった。 水俣病が公式に確認された一九五六年、不知火海沿岸の長島町に生まれた。父は漁師で、毎日魚を食べた。原因企業のチッソ水俣工場があった熊本県水俣市は遠い対岸。足がつる症状があったが「水俣病とは思わなかった」。 二〇一〇年、国などに損害賠償を求める東京訴訟を始めた。約二百人に増えた原告は昨年、和解で特措法と同水準の救済を得た。今も患者の掘り起こしは続く。