先日お邪魔したご高齢のお客さん宅。色々な作業が終わって、お茶を頂いた時に、自分の出身を聞かれて、お客さんの出身も聞き返したら、ちょっと難しそうな顔になって、 「北海道だけど、今は無い。」 と。なので千島か樺太かと思い、 「樺太ですか?」 と答えると、少し嬉しそうな顔に。
先日お邪魔したご高齢のお客さん宅。色々な作業が終わって、お茶を頂いた時に、自分の出身を聞かれて、お客さんの出身も聞き返したら、ちょっと難しそうな顔になって、 「北海道だけど、今は無い。」 と。なので千島か樺太かと思い、 「樺太ですか?」 と答えると、少し嬉しそうな顔に。
先日、11月14日に NHK 総合の「目撃!にっぽん」枠で放送された「遺された声〜横井庄一の“戦争”〜」を録画して視聴しました。 www.nhk.jp まだ存命の妻へのインタビューや帰国の翌年に録音された横井さんの証言を軸とした構成。 タイトル 証言から、軍の上層部にとって自分の存在は都合が悪いと横井さんが考えていたことがわかります。 参謀は終戦前に脱出 「わしが出てきて困る人」 当初、グアム戦について積極的に証言するつもりだった横井さんが口を閉ざすようになった横井さん。 「戦争の後始末」 その横井さんが口を閉ざすようになった経緯について、当時取材にあたった中日新聞の元記者が証言。横井さんが「民兵を射殺した」と証言したのです。 民兵射殺の証言 当時の紙面 しかしこの証言が報道されると横井さんは発言を翻します。県の援護課が介入した可能性を否定できません。 発言撤回 元記者は当時の自分の取材姿
朗読の題材になったエピソードは、1巻ラストに収録されている第7話。カメラ越しに戦場を見つめた書記・ヴィレンスカヤ軍曹を田中敦子、ソ連初の女性機関士として戦場を駆け抜けたアレストワ機関士を高山みなみ、「戦争で一番恐ろしかったこと」を語る射撃手・アフメートワ二等兵を水田わさびが演じ、そのほか楠木ともり、古賀明、菅原慎介、小林千晃、花守ゆみりも出演する。 「戦争は女の顔をしていない」は、第二次世界大戦従軍女性たちを取材したジャーナリストのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによるインタビュー集をコミカライズしたもの。KADOKAWAのWebマンガサイト・ComicWalkerで連載中だ。2巻には、アレクシエーヴィチ自身がなぜ女性たちの証言をまとめて本を作ろうと思い至ったのか、その経緯を語ったエピソードも収録される。
太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。米軍が上陸した際、沖縄本島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が命を落とした。ただし、手榴弾の不発などによって一命を取り留めた人もいる。あの集団自決の現場では何が起き、どのように生き抜いたのか。75年前を振り返ってもらった。(文・写真:写真家・亀山亮/Yahoo!ニュース 特集編集部) 5月1日から68日間、新型コロナウイルスの新規感染者数ゼロが続いた沖縄。だが、7月に入ると、在日米軍基地を含む県内で感染者が急激に増加。さらなる感染拡大への恐れと自粛の空気が強まりつつある。例年であれば夏休みの観光客で賑わう那覇市内の国際通りも、人通りが減っている。 今年はそんなコロナ禍の影響で、生まれ故郷の島へ帰れなかった人がいた。 「(3月28日の渡嘉敷島の)慰霊祭、毎年行ってたけど、
チー @cheetaro3 100歳の元陸軍兵士の老人に「戦争が悲惨だと言ってるのは元々が恵まれてた奴だけだよ。あんたもその口だろ?」と薄笑いを浮かべた表情で言われたことがあるが、あれには心底ゾッとした。 傍目には好々爺にしか見えない彼の一瞬の表情だった 2018-10-08 10:23:47 チー @cheetaro3 一口に戦争と言っても、その時の立場や生活歴によって解釈の仕方がかなり食い違う。 学徒出陣で軍隊に入った人は軍隊を「真空地帯」のような陰惨なイメージで語る傾向にあるが、松本清張は「初めて門地学歴の差別のない・個人が自己顕示可能な環境を体験できた」(半生の記)と肯定的に描いている。 2018-10-08 10:28:35
ここ数日、祖父母の戦争体験を語るエントリが多くあったので私も思い出した。 こわがりな祖母が聞かせてくれた沖縄戦の話 祖母は沖縄県中部の農村に生まれた。物心つく頃には労働力として畑にかり出され、毎日サトウキビの世話をさせられたらしい。 毎日畑と学校と家の往復で忙しかったけれど、それなりに楽しい幼少期を過ごしたそうだ。 だが中学に入学したあたりでそれまでの環境が一変した。 突然学校でウチナーグチ(沖縄の方言)を話すことを全面的に禁止されたのだ。ウチナーグチは本土の人間からすれば全く何を言ってるのか分からない未知の言語であるため、 こんなものを日本語と認めるわけにはいかん、正しい日本語を身につけさせお国に尽くす青少年を育成せよとのお達しが来たのだ。 日常会話の全てをウチナーグチに頼ってきた当時の子供たちはかなり戸惑ったそうだ。ウチナーグチがポロっと出ただけで教師に襟首を掴まれ、 ほかの生徒たちが
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。 そして当時中学生だった祖父は、6日から1週間の内に広島市へ入市した。 これは父から聞いた話であり、私が祖父から直接聞いたのは「広島の原爆で二次被曝したから手帳を持ってるよ」だけだった。 多分子供に話す内容ではないと思ったのだろうが、祖父の死後、やはりどうだったのか気になった私は父親に聞いた。 1945年8月6日、広島県にある祖父の通っていた中学校(中心部のでは無いらしいが調べてみても分からなかった)の校長・教職員・生徒は、 陸軍学校の掃除という事で集合し、広島の中心地へ向かった。だが、9人だけは違った。 そこには祖父も含まれていた。祖父はその時、何らかの事情で行く事が出来なかった。 他にもスイカを食べ過ぎてお腹を壊した生徒や、寝坊した生徒など祖父を含めて9人が行かなければいけない大切な仕事を休んでしまった。学校側もお怒りだったらしい。 だが
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「本書は当初、日本人読者向けの出版物として企画され」たが、1993年に英語の原文がフィリピンで出版されたままになっていた。その「序」で、編者のレナト・コンスタンティーノは、つぎのように述べている。「日本人はこの間の年月、他国を占領した自国の軍隊が犯した残虐行為と罪について知ることを故意に妨げられており、かかる歴史の意図的な歪曲ゆえに、先の戦争においては侵略者ではなく犠牲者であったという考え方が再び広まっているという点で、本書の物語は日本人が自分たちの過去と向き合うのに役立つであろう」。 そのために「執筆者四人は、日本人占領者と直接に触れ合った体験をもつ人々が何を感じたのかを後世のために残そうと、共通の努力をした。その記述は年齢や職業、地域を網羅している」。「ここに収められた四論文は全て、公的史料では決して伝達できない暖かい人間性にまつわるフィリピン史の重要な一
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【岡戸佑樹】私立椙山(すぎやま)女学園高校(名古屋市千種区)の放送部がつくった10分間のラジオ番組。先輩が戦時中、校内で風船爆弾をつくった様子を語った。「後世に伝えなければ」。そんな思いで聞き取った69年前の記憶は、30日にオンエアされる。 「これはすごい兵器、秘密の。これさえあれば盛り返す」 「国のために尽くせる、ただそれだけだった」 ラジオ番組「伝えたい ~風船爆弾の記録~」。風船爆弾をつくった卒業生である井上寛子さん(82)=名古屋市北区=、堀井須美子さん(83)=同市北区=、徳田百合子さん(82)=同市守山区=の証言が紹介されている。 風船爆弾は戦況の悪化を受け、旧陸軍が開発した「秘密兵器」だ。椙山女学園高校では1944年の秋から冬にかけ、1、2年生約120人が屋内プール場や体育館で和紙をはり合わせてつくった。 当時は箝口令(かんこうれい)がしかれ、学園史にも「風船をつくる秘密軍需
九月一日、首都圏に甚大な被害をもたらした関東大震災から九十年を迎える。揺れや大火で壊滅状態となった首都圏では「外国人が暴動を起こした」といったデマから虐殺が起きた。七歳の時に被災した豊島区の長島花樹(はなき)さん(97)は「うめき声が今も耳の奥に残っている」と話す。 (杉戸祐子) 大震災から数日後、長島さんが栃木県内の親類を頼って避難するため、鉄橋の落ちた荒川を豊島区の自宅近くから、埼玉県側に渡し船で渡ろうとした時のこと。「ギャア」「ウーン」。川堤で日本人が朝鮮人を虐待する声が聞こえてきた。 目の当たりにはしなかったが、「ひどいことをしているのは子どもにもわかった」。背景にデマがあることは知っていた。「警官が『朝鮮人が井戸に毒を入れたから飲まないように』と言って回っていた。警察もすっかり混乱していた」
太平洋戦争末期、日本軍に農作業させられた朝鮮人兵を調べた証言集「もう一つの強制連行 謎の農耕勤務隊」を、町田市相原町の青山学院大名誉教授雨宮剛さん(77)が自費出版した。韓国の元隊員から聞き取り、全国の目撃証言も集めた。公的資料が乏しく、研究もほとんどされていない分野だけに貴重な記録となる。 (福岡範行) 証言集によると、農耕勤務隊は一九四五(昭和二十)年、燃料用のサツマイモなどの栽培を目的に設置された。この年の五月ごろから動員された正確な人数は不明だが、朝鮮人兵一万二千五百人を充てる計画だったとされる。 農耕勤務隊は、雨宮さんが育った愛知県豊田市にも派遣された。くわを持ち、階級章に星印がない隊員の姿を異様に感じ、長年気に掛けていた。雨宮さんは五年前、脳梗塞から回復したのを機に独自調査を決意。今年五月、A5判五百五十四ページの本にまとめた。
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