『文芸春秋 1995/05』 ドレスデンと東京 松尾文夫 とにかく仕事でたびだび訪れる米国である。一九六〇年代後半と八〇年代初めには、ワシントン、ニューヨークの特派員として二度も勤務した。しかし、二月中旬、この第二の故郷といってもいい二つの街を回った旅では、日本が米国と戦争し、敗れたのだという過去をいつになく身近に感じた。ことしが敗戦五十周年だからだけではない。同じような節目の年を迎えているドイツの方が米国との間にずっと安定した関係を築き上げているのではないか、それに比べて日本と米国は、政治、経済、社会のすべての分野でこれだけ切っても切れない関係となりながら、依然として五十年前の傷跡を十分に修復していないのではないか─こんな自問自答をかかえることになったからである。 きっかけは二月十三日朝、ワシントンのホテルの部屋で見たテレビだった。前夜、ドイツ東部のドレスデン市で行われた無差別爆撃五十周
「ワラン・ヒヤ―日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録」(石田甚太郎、1990、現代書館) (P158-172) 一九四五年一月末から三月にかけて、マニラの南部のラグナ州で起こった日本軍の「ゲリラ討伐」と称する住民虐殺は、秋田歩兵十七連隊長でもあった藤兵団長の命令である。『戦史叢書60』によると、彼は次のような経過で、「ゲリラ粛正」を命令した。 「兵団長は(一九四五年)一月中旬、わが討伐中隊がサンパブロ地区で約十名の死傷を生じ、次いで同二十二日前後に集成討伐大隊が同方面で十数名の死傷を生ずるや、(一九四五年一月)二十五日、中隊長以上を会同し、『対米戦に先立ちゲリラを粛正する』命令を下した。この際、『現状をもって推移すれば対米戦を待たず自滅に至る』旨を述べ、『住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛正せよ、責は兵団長が負う』旨を述べた。部隊はこれにより粛正を行った」 カランバの場合、前
尖閣問題で、海外メディアは日本に対して予想以上に厳しい | 橘玲 公式サイトこれに対する反応を見ていたのだがシンガポールは華僑が多いから中国の肩を持つんだという意見が多かったことが引っかかっている。 確かにそういう要素もあるが、単純に人口比だけの話ではなく歴史的経緯も関わっているということを、どの程度の人が把握しているのかが気になるところだ。マレー作戦とかどの程度知られているのだろう?たしかにシンガポールは華僑が多く、中国語が公用語の一つになっている国で、シングリッシュと呼ばれる彼等の英語には中国語の影響が強く見られたりもする(OK のかわりにliao(了)が使われる等)のだが、領土問題とか戦後賠償問題とかで中国側に近い意見が出がちなのは、別の理由も存在する。 例えば1942年にシンガポールの戦い、というものがあって、その後数年間日本がシンガポールを占領して軍政を敷いていたのだけど、そのあ
太平洋戦争中、空襲や艦砲射撃など戦争被害に遭った民間人やその遺族を救済するための新法制定に向け全国各地で活動している全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)は11日、「民間戦争被害者の差別なき国家補償を求める沖縄交流集会」を那覇市内で開きました。「沖縄10・10大空襲・砲弾等被害者の会(沖縄民間戦争被害者の会)」との共催。全国集会の開催は初めてです。 集会には東京大空襲訴訟の原告団・弁護団をはじめ、全国の戦争・空襲被害者らが集結。「憲法で保障された法の下の平等にもとづき、すべての戦争被害者を救済・補償する新補償法成立のための運動を全国的に広げていこう」と決意を固め合いました。 沖縄民間戦争被害者の会の瑞慶山(ずけやま)茂顧問弁護団長が、国内で唯一地上戦が行われた沖縄戦について報告。「一般民間住民戦死者のうち3万8754人が戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用除外とされた。疎開船撃沈、戦争マラリア
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