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歴史と沖縄に関するkabutomutsuのブックマーク (5)

  • [CML 017916] 先生は陸軍の工作員だった

    kabutomutsu
    kabutomutsu 2019/06/22
    "釈放後、故郷の兵庫県に帰った上原は、小学校 教員として勤務しました。最後は校長になりました。いつも命の大切さを訴えま した。戦争のことは全く話しませんでした。そして、死ぬまで久米島を訪れるこ とはありま
  • 「戦争終わったよ」投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺 - 琉球新報デジタル

    沖縄戦での久米島で、米軍から逃れて自死しようとして住民の呼び掛けで一命を取り留めた渡嘉敷一郎さん=19日、東京都練馬区の自宅 【東京】沖縄戦で島における日軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。同じ久米島出身の政子さん(80)が住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けており、一郎さんも参加して語り始めた。紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日兵だった」と振り返る。 沖縄島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。日のポツダム宣言受諾後の8月18日、島にいた日軍の

    「戦争終わったよ」投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺 - 琉球新報デジタル
    kabutomutsu
    kabutomutsu 2019/06/22
    "「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)が、6月26日の米軍上陸後にスパイ嫌疑で住民20人を殺害した。米兵に拉致された住民を「スパイ」と見なし、目隠しのまま銃剣で刺し、家に火をつけて焼き払うなどした。朝鮮人家族も
  • キーワード沖縄戦(52)残置工作員 | 沖縄タイムス+プラス

    スパイ養成機関の陸軍中野学校出身者で、太平洋戦争のさなか、伊平屋島、伊是名島、久米島、多良間島、粟国島、黒島、波照間島、西表島、与那国島の9離島に11人が配置された。県知事から辞令を受け、学校の教員など社会的地位の高い人物になりすまし、住民生活に入り込んだ。

    キーワード沖縄戦(52)残置工作員 | 沖縄タイムス+プラス
  • 東京新聞:「沖縄部隊 核攻撃を」 キューバ危機で米軍誤命令 現場が回避判断:国際(TOKYO Web)

    沖縄県読谷村にあったメースBの発射基地。ミサイルが8基あり、キューバ危機当時、発射可能な状態にあった(元米空軍兵のデニス・フィッツシモンズ氏提供) 冷戦下の一九六二年、米ソが全面戦争の瀬戸際に至ったキューバ危機の際、米軍内でソ連極東地域などを標的とする沖縄のミサイル部隊に核攻撃命令が誤って出され、現場の発射指揮官の判断で発射が回避されていたことが十四日、同部隊の元技師らの証言で分かった。 キューバ危機で、核戦争寸前の事態が沖縄でもあったことが明らかになったのは初めて。ミサイルは、核搭載の地対地巡航ミサイル「メースB」で、六二年初めに米国施政下の沖縄に配備された。運用した米空軍第八七三戦術ミサイル中隊の元技師ジョン・ボードン氏(73)=ペンシルベニア州ブレイクスリー=が証言した。別の元米兵も取材に応じ、誤った発射命令が出たことを認めた。

  • 久米島守備隊住民虐殺事件 - Wikipedia

    沖縄県における久米島の位置 久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。 当時の責任者だった日海軍通信隊の分遣隊の隊長であった鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)は、戦後の1972年(昭和47年)にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した[1]。 当時、久米島具志川村の村長であった濱川昌俊が残した日誌によれば、前任の分遣隊長と島民との間には和やかな交流があったが、鹿山兵曹長が隊長として赴任すると隊と島民との関係が一変。島民との間に壁を作り、一下士官でありながら、部隊長気取りで自らを神聖化し、隊員はじめ島民に対しても絶対服従を強いた。村長である濱川には一目置いていたが、村

    久米島守備隊住民虐殺事件 - Wikipedia
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