2023年2月24日、ついに大阪府がダイキン工業への対策を求めると明言した。 全国一のPFOA高濃度汚染が広がっている摂津市の市民が、吉村洋文知事に対し、1万6317人分の署名を提出した結果だ。 この日、摂津市民と京都大学の研究者は共同で記者会見を開いた。「ダイキン」の企業名を出してこなかったマスコミ各社も参加した。 左から、「PFOA汚染問題を考える会」の谷口武事務局長、京都大学の原田浩二准教授、同小泉昭夫名誉教授 「将来を担う子どもたちが心配」 午前10時45分、私は大阪府庁4階の記者室に到着した。記者室には、NHK、毎日放送、朝日放送、読売テレビ、関西テレビといった在阪のテレビ局に加え、朝日新聞や産経新聞などの記者やカメラマンがいた。総勢25人。 会見の主催者は摂津市民からなる「PFOA汚染問題を考える会」だ。1時間ほど前に、吉村知事あての1万6317人分の署名を提出し、府事業所指導
5年生存率はわずか7%。アスベストを吸ってから数十年後に発症する希少がん「中皮腫」患者のいま FNSドキュメンタリー大賞2019 かつて“奇跡の鉱物”とまで呼ばれていたアスベスト(石綿)。高度経済成長期には、耐熱性、保温性の高さから建設用資材など、さまざまな製品に使われていた。 一方、今ではアスベストは「中皮腫」というがんの一種を引き起こすことが分かっている。被害に遭ったのは、アスベスト工場の作業員だけではない。「どこでアスベストを吸ったのか分からない」人たちも大勢いるのだ。 彼らには労災が適用されないため、企業からの補償金が無く、国による療養手当もわずかで、生活が困窮している人も少なくない。 日々悪化する容体、そして死。 2016年に中皮腫だと診断された右田孝雄さんは、患者同士をつなげ、その環境を変えようと試みてきた。 前半では、患者たちの生きざまを通して、中皮腫という病気をめぐる現状を
中京大学の成元哲さんたちと共著の論文が、webで公開されました。 牛島佳代・成元哲・向井良人・除本理史(2019)「福島から照射する水俣病をめぐる分断修復の現状と課題」『中京大学現代社会学部紀要』13(2):83-125 https://t.co/EAGiEBAqAK
「新聞はデマだらけ」言説は、80年代保守論壇ですでに大流行だった イタイイタイ病の被害もデマと目された 徹底的に「事実」に拘る 相手をデマだと主張することそれ自体がデマであるケースを見てきた。そして、80年代の事例からは、そこに政治的・経済的な利害関係もあることが伺い知ることができる。さらには、国際的・国内的な政治的状況に起因する疑心暗鬼も関係していた。高度情報社会が到来し、メディアと現実のあり方に対する感覚が変容していたことも、影響していただろう。 公害問題と、政権に関わるスキャンダルにおいて使われたロジックと似たものを、原発事故や森友問題のときにぼくらは多く目にしたと思う。「科学的」と自負する人間が非科学的であったり、「事実」だと主張するものがそうでないケースも多々あった。このような事例に出くわすと、途方に暮れる思いになる、というのが正直なところだ。 ではどうしたら良いのだろうか。確た
足尾と水俣が数十年にわたる大公害事件となった理由 環境に対する企業姿勢の「答え」は、日本の公害史にある 法学部全ての方向け政治経済文化 Tweet 今や、企業が社会的責任を全うすることは、いかなる事業でも当たり前の責務となった。サステナビリティ(持続可能性)の概念が重要になる中で、地球環境や地域住民の生活を守りながらビジネスを行うことは、絶対に破ることのできないルールと言える。 一方で、歴史を振り返ってみると、さまざまな事業活動が地域環境や地域住民に影響を及ぼし、公害として、今も問題として残っている事例がある。なぜこれらの問題は無くならないのか。そして、公害を無くすためには何が必要なのか。 「公害と向き合うとき、私たちは過去から学ぶことが必要です。大規模な公害を改めて見直すことで、企業のとるべき対応や振る舞い、あるいは公害を引き起こした時代背景や国策の影響が見えてきます」 こう話すのは、法
水俣病の公式確認から62年を迎えた1日、水俣病犠牲者慰霊式が熊本県水俣市の「水俣病慰霊の碑」前で営まれた。参列した原因企業チッソの後藤舜吉社長(83)が式後の取材に対し、水俣病被害者救済法(特措法)に盛り込まれた事業子会社JNC株売却要件の一つである「救済の終了」について「異論はあるかもしれないが、私としては救済は終わっている」と述べた。 現在も患者認定を求める人がおり、訴訟も続いていることから患者・被害者団体からは「加害企業としてあるまじきことだ」と批判の声があがっている。 後藤社長は、JNC株の売却について「ぜひやりたいと思っています」と意欲を示した。チッソはこの株を売却した後、会社の清算が可能になるため、補償の主体が消えるとの懸念が患者・被害者団体にある。 水俣病の「最終解決」を掲げる特措法では「市況の好転」と「救済の終了」を条件に、環境相の承認を得てJNC株を売却できる手続きが盛り
水俣病の原因企業チッソへの公的支援が決まった経緯を記した内部メモの存在を確認したチッソ史研究者の矢作正氏(65)=東京=が7日、その概要を発表した。チッソ救済の一方、患者認定審査が厳格化され、多くの認定申請者が棄却されたと指摘した。 矢作氏は元浦和大准教授で「技術と社会」資料館(東京)館長。チッソ関係者の許可を得て同社保管資料を閲覧し、メモを書き写した。熊本県水俣市で7日始まった恒例の水俣病事件研究交流集会で報告した。 メモは1977~89年に副社長を務めた久我正一氏(故人)がまとめた「補償金県債実現の経緯」。作成時期は93年3月とみられる。70年代後半、チッソは患者への補償で経営が行き詰まり、関係省庁などに支援を求めて陳情を重ねた。久我氏らが接触した内閣官房の複数の高官は、公的支援を検討する一方、補償費の増大を抑えようと、患者との間で結んだ補償協定の改定や破棄をチッソに繰り返し注文。県知
水俣病の原因企業チッソが、患者への補償で経営危機に陥った1970年代、国が公的支援を決めるまでの詳しい経緯が、同社元副社長による内部メモから明らかになった。前例のない公害原因企業の救済に際し、補償費の負担を抑えようとする政府高官らの発言が生々しく記載されていた。 メモをまとめたのは77~89年にチッソ副社長を務めた久我正一氏(故人)。93年3月の作成とみられ、同社が保管していた。チッソ史の研究者を介し、朝日新聞は写しを入手した。 「補償金支払が激増し、経営は逼迫(ひっぱく)の度を深めた」 チッソは73年、患者家族による初の損害賠償請求訴訟(第1次訴訟)で敗訴した後、患者認定を求める人の急増で補償費支出が急拡大していた。久我氏や島田賢一社長らチッソ幹部は74年以降、環境庁の幹部や自民党国会議員らに支援を要請。630億円の総資産に対し906億円の負債を抱える深刻な債務超過に陥った77年度以降は
終わらない水俣病 胎児性患者は今 不知火(しらぬい)海を望む高台にある水俣病患者の療養施設「明水園」(熊本県水俣市)。小崎達純(たつずみ)さん(57)は約6年前から利用を始め、月の半分以上をここで暮らす。 「急に倒れたば…ば…場合のことば、か…考えたら、明水園にお…おった時のほうが、あ…あ…安心は安心。み…耳が遠かもんばっかりで」。水俣病に典型的な言葉のもつれ。熊本地震後は揺れを警戒し、園に滞在する日数を増やした。 水俣市の北隣、熊本県芦北町の漁村に生まれた。産湯を使った日、漁を仕切る網元の祖父が家族に熊本大学付属病院へ連れて行かれ、そのまま入院した。劇症型の水俣病で目が見えず、口もきけなくなり、2カ月後に死亡。母キヨ子さん(77)ら20人を超す親族が患者と認定されている。 達純さんは生まれる前から水俣病だった。魚介類を汚染したメチル水銀に、母の胎内でさらされた胎児性患者だ。「あの頃、魚を
行商で。漁で。不知火(しらぬい)海の魚は、熊本や鹿児島の山間部の集落、沿岸の島々へ届いた。民間医師団の水俣病検診記録の分析では、行政が救済策の対象に枠をはめた内外で症状の現れ方に大きな差がなかった。「症状で判断を」「海はつながっている」。今も被害を訴える人々がいる。 山あいの農村地帯の公園に「やまの」と書かれた看板や線路の一部が残る。鹿児島県伊佐市(旧山野町など)の山野駅跡だ。1988年に山野線が廃止されるまで、約20キロ離れた熊本県水俣市と結ばれていた。 伊佐市に住む税所(さいしょ)秀孝さん(78)は高校時代を鮮明に思い出す。毎朝8時ごろ、山野駅から水俣と逆方面の汽車に乗ると、てんびん棒や籠で魚を運ぶ行商人が大勢、車内にいた。雨の日はひときわ生臭い。行商人は沿線で物々交換をし、夕方には空いた籠に米などを入れて水俣方面行きの列車に乗った。税所さんの家は、なじみの3人の行商の女性から魚を買っ
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