勉強はきっとウチらに平等だ! 蚊帳りく 高校一年生のミーカは家庭の事情で塾へ行くことができなくなってしまう。 それでも志望校に合格するために、同じく塾に通っていないりっぴよに 自習の仕方を聞きに行くことに。志望校に向けて二人で勉強をすることになるが…!?
無敵の女 山崎虔十 駅のホームで全裸で泣き叫ぶオッサンに共感してしまった、人との付き合い方が分からないOL。「自己救済」すべく訪れた温泉街のストリップで、ある気づきを得て…。
姉が。 遠くない将来、私の義兄になるかもしれないその相手男性が身長165cmだと判明したので私が焦って 「一体何事だ!?考え直したほうが…」 と忠告したら 「いや、身長とかマジでどうでもいい。高身長をステキだと感じたことが人生で一度もない」 と姉からカミングアウトされて大変な衝撃を受けた。男の低身長をマイナス要素だと感じたことも人生で一度もないと言っていた。 「相手の『苗字』とか『下の名前』の文字のフォルムが異性の魅力に寄与しない感覚はわかるだろ? 男の身長なんぞ自分にとってはそれと全く同じ程度でしかない」 姉は高身長にうっとりする感覚が1ミリたりとも理解できないので同性ながらその一般的女性感覚が不思議で仕方ないのだそうだ。 165cm彼氏さん、マジであんた幸せものだよ。ほんとよかったな!!!!!! こちとら24年間女やってるけど 「男の高身長に異性としての魅力を全く感じないし、男の低身長
コロナ禍でなし崩しに半同棲を始めてしばらく経つんだが、少なくとも俺には不満ないしこのまま結婚するんだろうなーって思ってた。でも彼女は全くそういうことを言わないし結婚を匂わせるようなことを言うと話を逸らされてしまう。で、ついに昨日風呂上がりに「もしかして別れるタイミング伺ってたりする?」と聞いてしまった。彼女は困ったなーって顔して「結婚する気がないわけではないし別れるつもりもない」と言いつつ煮え切らない。じゃあなんで?と聞いたら、「この話を聞いた上でよく考えてくれ」と言われた。 「結婚したら不妊じゃない限り子供産まなきゃいけないと思ってるけどほんとはいらない。でもお互いの両親が可哀想だし、あなた(俺)も可哀想だ。だから他の女の子を探す方がいい」という。彼女は子供欲しくないと言うのは知ってた。子供や赤ちゃんが好きではないと言ってたし、態度から薄々わかってたと言うのもある、店とかで見かける子供も
「フリーランスエンジニアになりたいけど、スキル不足だったらどうなっちゃうんだろう」 こんな悩みはないだろうか? 筆者はフリーランスエンジニアとして2回活動した経験がある。1回目はエンジニアを始めて3年目の時だ。そして2回目はエンジニアを始めて7年目の時だ。この2回の経験からスキルの有無によって、フリーランスエンジニアとしての活動が大きく異なることを肌身を持って実感した。 具体的には、スキル不足な状態でフリーランスになると短期的にも長期的にも厳しいということだ。逆に、スキルが十分にある状態であればフリーランスとして活動することのメリットはとても大きい。 そこで、この記事ではスキルが足りない状態で背伸びをしてフリーランスエンジニアになるとどうなるかを実体験をベースに解説する。 この記事が筆者のように辛いフリーランス活動を経験する人を減らすことに貢献できたら光栄だ。 ①すぐに契約を切られるストレ
俺「やり残したこととかないの?」 父「ない。みんなよく育ってくれた。」 俺「そう。やり残したことなく死ねるなら最高じゃん。俺もそうなりたい。」 父は実家に帰るたび「死にたい」と漏らすようになった。 会社を定年退職後、家にこもるようになる。 死ぬ3年ほど前から、ストゼロとキングピースで昼夜自傷行為のたしなんでいた。 同居する母は父を慰め、病院への通院をすすめていた。 強く支えようとするほど希死念慮は強くなり、ゾンビのようになっていった。 アイコスやウォーキングマシンをプレゼントしてみたが、実家に帰るときれいなままホコリをかぶっていた。 一緒に飲んで慰めてみたが、俺の気持ちは落ち着くが、父には何の効果もなかった。 本当は生きたい事は分かっていた。 けど相手の無意識を健在化させ、死にたい病を治療する術は俺にない。 ある時から父を生かそうとすることを諦めた。 会うたびに、父に感謝の手紙を書いて読み
6歳のとき、友達のマホちゃんが誰も履いていないようなフリフリのスカートを履いていた。みんなは可愛いねと言ったけど私は変だと思ったから、変だねと言った。マホちゃんは怒って泣いた。 8歳のとき、父親が知らない女の人といるのを見た。私はそれを浮気だと思ったから、晩御飯のとき二人にそれを伝えたら、数カ月後、両親は離婚した。母親は一言私に、アンタのせいよとだけ言って、それ以来父親の話をしなくなった。 14歳のとき、マホちゃんが好きだと言っていた先輩に告白された。マホちゃんがあなたの事好きらしいので、と断った。それを伝えたら、マホちゃんは怒って泣いた。 16歳のとき、初めてのバイト先で品出しをしていたらパートの人からバックヤードに呼び出された。私の品出しの仕方が間違っていると話し始めた。私は慌てて商品のところに行って、直してから退勤した。それ以来パートの人から無視されるようになった。 18歳のとき、美
大阪在住のフリーライター。酒場めぐりと平日昼間の散歩が趣味。1,000円以内で楽しめることはだいたい大好きです。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーとしても活動しています。(動画インタビュー) 前の記事:買った袋麺をその場で作って食べていい「ラーメンコンビニ」スタイルの店が鶴橋にあった 「ブスの店 杏」はこんな店だった デイリーポータルZで過去に公開された記事に、尾張由晃さんの書いた「楽しいスナックブスの店」がある。 2012年公開の記事なのだが、尾張さんが同じくデイリーポータルZライターの小堀友樹さんと一緒にドキドキしながらこの店に入った時のことが詳しく書かれている。すごく楽しかった雰囲気が伝わってくる。 私が東京から大阪に引っ越してきたのはこの記事が公開されたもう少し後だったのだが、近所を歩いていたら、ひさしや看板に「ブスの店」と書いてある店があって驚いた。 お店の外観はこんな感じ
リアルな知り合いが見ると身バレするから多少フェイクを交えるが書いた内容はほぼ事実だ。 表題通りNISAをやってた会社の同僚が先日不幸な事故で死んだ。 その人の趣味が投資とカフェ巡りで、たまにおしゃれなカフェとかも教えてくれた。 投資の話は金が絡むので余り話してはくれなかったが、社食で新NISAのニュースがテレビから放送されてた流れで実は自分もNISAをやってるから楽しみだと打ち明けてくれた。 今年で一般NISA枠の600万満額使い切るから新NISAと合わせて合計2400万の枠が出来ると喜んでいた。 なんか人生考えちゃったな。 当然将来の事は考えなくちゃいけないんだけど、5体満足で寿命まで生きられるとは限らないんだよな。 NISAやってた5年間で600万使って豪遊した方が人生楽しかったよね。 そもそも老後に2400万あっても嬉しいか? まともに飯が食えるかも分からないし、満足に歩けるかも分か
おれと酒、酒とおれ おれは酒が好きだ。酒も俺のことが好きなんじゃないかな。 とはいえ、「酒」といってもいろいろある。大きく分けたら醸造酒と蒸留酒ということになるのか。大きく分けたらおれは蒸留酒のほうが好きだということになる。 おれが好きなのはウイスキーだ。ウイスキーがお好きでしょう。でも、さらに絞りたい。絞った先にあるのは、スコッチということになる。スコッチのなかの、シングルモルトということになる。 シングルモルトのなかでも、アイラモルトが好きだということになる。ラフロイグが好きだ、ボウモアが好きだ、なによりアードベッグが好きだということになる。どんな味がするのか。薬品臭とすら言われる独特の香りがある。そして、酔いがたまらん。 「酔い」に違いがあるのか。味や、匂いではなく。 おれは「ある」と答えたい。質の良いスコッチのもたらす酔いは別格だ。一瞬で深く染み渡り、じつにいい気分になれる。そして
大学卒業後就職に失敗。アルバイトから物流会社に勤務するも辛すぎて数ヶ月で退職しそこから10年以上引きこもり。 母が職場で倒れたことをきっかけに介護施設に就職し、数年経って介護福祉士となった。それからしばらくして転職し現在も勤務する私立病院の事務職に就いた。この時41歳。 そこで知り合ったのが妻。 同い年でバツイチの看護師。自分も向こうも職場で同僚との人付き合いが殆どなかったが、何故か挨拶する様になって会話するようになって付き合い始めた。女性と交際したことは40年以上生きてて一度もなかったが、その歳だったからか初デートでも初セックスでも一切緊張しなかった。 約2年交際してから結婚。お互い歳で向こうは既に子宮を全摘してるってこともあり子なし夫婦。最初は母と3人で住んでいたが間もなく亡くなったため以後は二人きりの生活になった。ご飯食べて、仕事行って、ご飯食べて、各々本読んだりテレビ観たりして、2
独身中年は狂う説、少し前まで自分には関係無いと思っていた。 ところが自分にもその波が来てしまった。もう全てが手遅れだが、正気と体力が残っているうちに書き残す。 せめて同じ轍を踏む人が一人でも減ることを祈る。 スペック35歳、166㎝、63kg 年収500万(賞与無し、固定残業45、1000人ぐらいのJTCで役職付の事務職) 資産 現金と株と投資信託合わせて400万ぐらい。 加齢による衰えは狂う前兆加齢による衰えは、最初はほとんど気にならないレベルで、しかしある日突然重くのしかかってくる。 30代前半までは何ともなかった体が、中年になると自分を裏切り始める。 ・体力の低下 40時間、50時間とこなしていた残業が、急に辛くなってくる。 満員電車1時間に耐えられなくなってくる。 睡眠時間がどれだけあっても足りなくなる。 とにもかくにも疲れやすくなってしまい、そして回復しなくなる。体はずっと疲れた
●病気と療養の概要 ●情報•判断•処理の能力とコスト ●癌の費用と「がん保険」 ●髪の毛や酒の「真の損得勘定」 ●時間の最適化としての人生 病気と療養の概要 筆者は昨年、癌に罹った。食道癌である。本稿執筆の時点で(2023年1月下旬)、手術からの回復過程にあるが、再発防止目的の薬剤を投与するために一月に1、2度通院している。癌は全てが投資やお金と関係する訳ではないが、本人にとって不確実性下の意思決定問題である点が投資と似ている。 今回は、自分で癌に罹り、治療に臨んでみて、何を感じ且つ考えたかについて率直に書いてみよう。今後に公開する動画で、筆者の風貌が少し変わっている(数キロ痩せて、髪の毛が減っている)理由の説明にもなるだろう。 尚、投資の文章では末尾などに「投資判断はご自身で行って下さい」としばしば注記されているが、本稿の性質もそれに似ている。筆者の治療方針の選択や意思決定は一例であって
40歳で子供ができた。 私にそっくりな顔のその子は、もう4歳になって幼稚園に通っている。 毎日楽しそうに友達と走り回っている。何がそんなに楽しいのか。 子育てをしていると、嫌でも昔の自分が思い返されてしまう。 幼稚園。なぜだろう、先生の声は私の耳には届いてこないことが多かった。 みんながわいわい遊びはじめても、私の世界はよく半径1mほどに縮まる。 足元への焦点はよく合った。 ひとり無表情で考えていたことは、「自分に子供ができたら、うん子と名づけていじめてやろう。」だった。 学校が嫌だった。 ひとりぼっちの休み時間は、早く終われと数を数えて、長すぎる地獄のような時間をやり過ごした。 学年が変わるたび、なんとか黒い内面を隠し「普通の子」に擬態して、周りに溶け込めないかと期待したが、いつも失敗した。 私の母親は明るく楽しい人だった。 平日は遅くまで仕事をしていたが、休みの日には色んなところへ連れ
就職活動や昇格の面接で、「10年後の自分をどう考えていますか?」という質問をされることがあるじゃないですか。 私はあれが嫌いで、自分は面接で聞くことは絶対にしません。だって、この質問って、「私たちが採用するにあたって耳障りの良い、納得できる10年後のキャリア像、キャリアプランを説明してほしい」ってもので、純粋に知りたくて聞いている質問じゃないですよね。 被面接者が「10年後、そうですね……。できれば億万長者になって仕事なんてしたくないですね」と正直に答えたところで、面接官は納得してくれません。 素直に、その人がどういう仕事をしていきたいかを聞きたいのであれば、「この会社には、転勤をしないで専門職として同じ業務をし続けるパターンと、転勤含めてローテーションで色んな業務に関わるパターンと色々あります。あと、短期間でたくさん経験を積むのと、じっくり時間をかけるというのもあります。どういう風に働き
39歳子供部屋おじさん、異世界転生できませんでした(前編)【たらい回し人生相談】 【たらい回し人生相談】〜ヤバいやつがもっとヤバいやつに訊く〜 連載第3回 「ヤバいやつがもっとヤバいやつに訊く」・・・本邦初のカルト人生相談シリーズ。今回は、「39歳子供部屋おじさん」無職の独身男性 A氏。彼はいったいなぜ「たらい回し人生相談」にやってきたのか? いや連れてこられたのか? 相談部屋の主人は「大司教」と呼ばれる謎の危険人物。ある筋では名の知れた博覧強記の異常天才である。A氏との緊迫感漂う人生相談の一部始終を公開。今回はその前編である。 大司教(左)とA氏。 冒頭: 39歳無職の独身男性、A氏。彼はいわゆる「子供部屋おじさん」だった。 そんな彼は、ある日一枚のチケットを手にしていた。それは人生を取り戻すチャンスだった。宝くじではない。中東某国行きの航空券のチケットだ。大人の事情によって国名は明らか
私は、1993年の1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市で生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんを食べ、旧居留地の優雅な建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲食店が立ち並ぶ下町の長田、六甲山の麓に日本屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域も個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生の3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。 私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパスは自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校で勉強するのかな、なんて思っていたものだ。 私が小学校にあがる前のある日、父とふたりで大学の中を歩いて
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