ソ連海軍が作成した地図。北海道や対馬など占領を検討した地域には印がしてある(ロシア連邦外交政策文書館所蔵) 第2次世界大戦の日本の敗戦を機に、当時のソ連軍が北海道全島をはじめ、対馬や朝鮮半島南部の港など広範囲の占領を検討していたことが、ロシア連邦外交政策文書館がオンラインで公開している公文書に記録されていた。記載内容を、岩手大の麻田雅文准教授(東アジア国際政治史)が確認した。 【動画】「前にいた軍人が爆弾の直撃受け…」満州でソ連軍の侵攻を経験した男性の証言 確認されたのは、1945年8月16日にソ連首相のスターリンが、北海道北半分をソ連軍の占領地域とするよう米側に要求した内容の基になった草案。ソ連の赤軍参謀総長アレクセイ・アントーノフらが同日にモロトフ外務人民委員に提出したもので、「日本の主要な島々を、連合国のための占領地域に分割し、特にソ連には北海道を割り当てる」と、北海道全島占領を求め
12日公開の外交文書には、1983(昭和58)年1月に訪米した中曽根康弘首相が、米紙ワシントン・ポスト社主との朝食会で「日本列島を不沈空母のように強力に防衛する」と述べたと記録されていた。 ポスト紙の報道後、中曽根氏は発言の有無に関し、説明を二転三転。後年のインタビューなどでは、実際は「高い防壁を持った大きな船」と表現し、それを通訳が意訳したと語っている。取扱注意とされた文書では、不沈空母発言について中曽根氏がポスト紙側の質問に、率直に答えた様子が見てとれる。ポスト紙がすぐに報じたが、日本政府は同行記者団に発言を紹介していなかったため、記者団が政府側に確認を求めた。 中曽根氏は帰国前の記者会見で発言を否定したものの、帰国中の機内では一転して認め、国会でも同様の答弁。政界引退後のインタビューでは「通訳が、だいぶ意訳をした」「正確ではないと気付いたが、この方が分かりやすく、異を立てなかった」と
43年8月、チャーチルとルーズベルトがカナダ・ケベック州で原爆を共同開発すると決めた秘密協定「ケベック協定」。米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できない=英国立公文書館所蔵(岡部伸撮影) 【ロンドン=岡部伸】第二次大戦中の1945年7月、英国のチャーチル首相(当時)が米国による日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。約1カ月後の広島と長崎への原爆投下に至る意思決定に、チャーチルが深く関わっていたことを裏付ける資料として注目されそうだ。 同館所蔵ファイル(CAB126/146)によると、原爆開発の「マンハッタン計画」責任者、グローブス米陸軍少将が45年6月初め、英国側代表のウィルソン陸軍元帥を通じて英政府に日本に対する原爆使用を許可するよう求めた。 打診は、米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないなどと定
1945年8月9日の長崎への原爆投下を前に、米海軍への長崎出撃などを禁じた同軍の極秘電文3通が米国立公文書館で見つかった。同1~4日付電文で、太平洋艦隊司令長官が日本近海で部隊を率いる第3艦隊司令官に送信していた。米兵の被ばく防止と原爆投下を計画通りに進める狙いがあったとみられる。第3艦隊の攻撃目標も長崎から東北地方に変更され、その後の東北空襲につながったことも判明した。 【写真特集】被爆3日後の惨状生々しく 記者が撮った40枚の写真 米軍資料から空襲の実態を調べる市民団体「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の工藤洋三事務局長=山口県周南市=が昨年、同公文書館保存のファイルから発見した。いずれの電文も太平洋艦隊司令長官ニミッツが、前線で第38任務部隊を率いる第3艦隊司令官ハルゼーに送っていた。工藤事務局長によると、海軍の前線に原爆投下に関する情報が事前に伝わっていたのが確認されるのは初め
チェルノブイリ事故、情報隠蔽にG7苦慮=サミット、対ソ批判控える-外交文書公開 史上最悪の爆発事故を起こした旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所。中央の、煙突が立っているのが爆発を起こした4号炉建屋で、手前側が大きく破壊されている=1986年10月1日(AFP=時事) 東西冷戦下の1986年4月26日にソ連で起きたチェルノブイリ原発事故をめぐり、先進7カ国(G7)がソ連政府の情報隠蔽(いんぺい)に苦慮していた様子が、20日公開の外交文書で明らかになった。直後の東京サミットでは、情報提供を促すため、あえて厳しい対ソ批判を避けた。また、日本の鹿取泰衛駐ソ大使は、ソ連への配慮などを理由に、食品の放射能検査の結果公表に反対意見を唱えていた。(国名、肩書は当時) 史上最悪レベルの放射能汚染をもたらした同事故では、ソ連から正確な情報が出てこないことに各国は業を煮やしていた。外務省は駐日ソ
ダレス米長官が改憲支持=「相互防衛に必要」-船田氏らに56年伝達・外交文書公開 ダレス米国務長官が1956年3月に来日した際、鳩山一郎政権要人との会談で、日本の憲法改正を支持する考えを伝えていたことが、20日公開の外交文書で分かった。集団的自衛権の行使容認を念頭に「相互防衛」に言及。同時に、軍国主義復活につながらないようくぎを刺すことも忘れなかった。(肩書、国名は当時) ダレス氏は56年3月18日、東京の米国大使館で重光葵外相、船田中防衛庁長官、河野一郎農林相、岸信介自民党幹事長らと会談。同党は55年11月の「保守合同」で発足したばかりで、改憲を党是に据えた。 東西冷戦の緊張が続く中、ダレス氏はソ連の動向などに触れた上で、「日本が世界の進化の責任を再び西太平洋方面で担うことを希望する」と発言。これを受け、船田氏が「しからば憲法改正が重要だ」と訴えた。 ダレス氏は「憲法上、直ちに相互防衛(の
【ワシントン山崎健】外務省が1987年、広範囲にわたる米公文書の非公開を米政府に要請した際、国務省東アジア太平洋局日本担当として米政府内の協議に参加した元駐韓米大使のトマス・ハバード氏(73)が西日本新聞の取材に応じた。ハバード氏は日本からの非公開要請は他にもあったと指摘。民主主義の根幹をなす国民の「知る権利」を無視した外務省の隠蔽(いんぺい)体質が浮き彫りになった。 「日米の政治 成長に差」 国務省刊行の米外交史料集編さん史の共著者で、87年に在米日本大使館から同局に非公開の公式な申し入れがあったことを突き止めた米歴史学者のジョシュア・ボッツ氏(37)によると、要請を米政府の機密解除審査部門に伝えたのがハバード氏だった。 ハバード氏は「関係国を当惑させるような公文書は公開するべきではない、というのが当時の私が強く感じていたことで、それは今も変わらない」と説明。しかし、審査部門の歴
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