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finalventとキリスト教に関するEreniのブックマーク (3)

  • 多分、胡錦濤の屈辱: 極東ブログ

    中国とバチカンの争いについて少し書いておきたい。まず前提となるのは中国における宗教の扱いだが、ざっくりと言えば信教の自由はない(憲法上はあることになっているが)。というのも宗教活動は中国政府の公認を必要とするからである。日人などの考えからすれば、まず宗教団体がありそれが政府に公認を求めるといった図を描きがちだが、そのあたりの宗教団体側の主体性というものがまず根底から否定されていると見ていいだろう。 中国のカトリックは、国家公認の「天主教愛国会」と「天主教主教団」がある。後者のほうがより中国に批判的ではないと言われているが、その違いについては私はわからない。昨今の話題としては天主教愛国会になる。同会は四月三十日と今月三日、雲南省昆明教区と安徽省蕪湖教区について新司教の任命式典を開催した。多少世界史というか西洋史に関心がある人ならバチカン側からの命令と考えたくなるが、この任命(人選)は天主教

    Ereni
    Ereni 2006/05/30
    一度和解にかなり近付いた時、中国が北京オリンピックで和解を大々的に演出することも考えているようだという報道を見て、うんざりした事を思い出しました。中国にとっては、全てその程度の認識なんでしょうが。
  • キリスト教、あれこれ - finalventの日記

    信仰とかにはまるで関心がない。 というか、西洋人も日人も、宗教というのを、あるいは神というのを、自己の精神の側のパラメーターでどうなるかのような精神現象と見ているのだな、面白い人々だなという感じがする。まあ、率直に言えばということだが。 聖書を自分なりではあるがよく読んだ。新約聖書は旧約聖書のコンテクストをはずすと意味がなくなる。ので、旧約を自分なりではあるがよく読んだ。読んでわかったことは、神とは、そこから逃げ出したくなるようなものであり、罵倒の対象でもあるようなものだ。ヨナの物語は、人が神から逃げる物語だ。処世とは、そういうものだ。 そしてそれらの物語の核心にあるのは、神が人を選ぶということであり、選ばれた人は神を罵倒してもまったくかまわない、そもそも迷惑なことだという当然の権利のようなものだ。ヨブの物語において神は不当ですらある。理不尽といってもいい。ヨブにはそう抗いたてる権利があ

    キリスト教、あれこれ - finalventの日記
  • クリスチャンであることというのは…… - finalventの日記

    社会の建前とその人の生涯の意味というのでは違う。たぶん、その人の一生のなかにイエスというものが表れているなら、その生涯の終わりをもって彼/彼女はクリスチャンであったことだろう。もっとも、そういう見方を私は人と共有しようというわけでもない。 人の一生のなかにイエスが現れる。刻印のように現れる。そういうことがある。そういう奇跡のような人がいるということはイエスが復活したという神話的な理解でもあるだろう。なぜそんなことが起こるのかわからないし、おそらくそれは個々人の内面の信仰やその手だてとはまったく異なるなにかなのだろう。 その意味で。 洪思翊はクリスチャンではなかったか。少なくとも私の生涯のなかに見える彼の姿は、歳を取るにつれて、イエスのそれと重なっていく。彼は語らず、我々の罪を負って、この世というものに処刑された。 もし、神というものが存在し、それが義であるなら、なぜ神は洪思翊を捨て置いたの

    クリスチャンであることというのは…… - finalventの日記
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