僕は生きていて、そもそも差別という概念はないですし、意識をすることもない。差別反対と言いながらこの単語を使うと自分のなかの大切な何かが分け隔てられてしまう怖さすらあります。ツイートすることすら憚れるような下劣な言葉がTLに散見され… https://t.co/CIZ6kh8vWs
日本の「特殊な人権」 日本人に人権意識は根付いているようで、どうも違うと感じることがある。一方では社会の中に平等意識が強く、自由と平等が確保されているように見える。教育機関や社会でも性別やハンディキャップに関係なく均等な機会の確保が求められている。 他方で、民意を無視した政治があり、力によって一方的に現状が変更されても、国民は欧米のような抵抗運動を起こさない。2015年政府は集団的自衛権の行使をめぐる平和安全法制を、憲法審査会に招致した憲法学者が全員「違憲」としたにもかかわらず、国民の反対を押し切って成立させた。 国民は政府が強引なやり方を行使しても、一旦決められたら反対運動を起こさない。人権は守られているようでありながら、欧米とは意識が違っている。どこが違うのか、なぜ違うのかはっきりしない。これが日本の不思議だ。 実は、「人権」は万国共通の理念と思われがちだが、日本には欧米と異なる人権理
「差別と社会」(大阪市立大学名誉教授 野口道彦)[1] 差別とは何か 差別とは何でしょうか。ある人は「これは、差別だ」といいますが、別の人は「差別ではなくて、区別だ」といって、意見が分かれることがよくあります。この差別と区別の違いの背景には、区別は「しても許されるもの」、差別は「してはいけないもの」というとらえ方があります。 では、1つの行為が、社会的にみて許されるのか、許されないのか。これらは、文化・宗教、価値観などによって大きく違います。また、時代によって大きく変化しています。長いスパンでみれば、過去から現在、未来と、人権のとらえ方は大きく進展しており、今の時代に生きる人が、差別だととらえていないことも、20年、30年後には、差別だととらえられることが起こるでしょう。その点、頭を柔軟にし、感性を磨いておかないと、次世代の人から、「古い、頭が固い」といわれるでしょう。 さて、差別とは、「
ナチスのせいで人権問題を錦の御旗にしているお歴々からは、優生思想ってだけで間違ってる認定されてるけど 両親が優れたアスリートの間に優れたアスリートが生まれる事を、世間は当たり前の様に期待してる。 プロアスリートの二世が期待されたり、アスリートが誰と結婚するのか気にしたり、運動能力については当たり前の様に遺伝を前提としてるし 頭の良し悪しについても、誰の子であるかで期待され、恵まれていると考えていて、環境だけでなく、そもそも遺伝で能力的に恵まれてると言い出す連中は少なくない。 努力すれば誰だって東大に合格できる、と言えば、遺伝による差を自分との違いとして言及する人は、とてもとても多い。 そう言う事を考えると、社会全体は本質的に優生学を必要としているし、受け入れている傾向が強いと言える。 単に優生学を嫌うお歴々は、無能で怠惰な自分を含む誰かを守りたいという思いだけなんだろうと思う。 優生学を悪
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