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き:教育とて:哲学に関するdimitrygorodokのブックマーク (5)

  • 【理解の6側面】「理解する」とは何か、説明できますか?

    「理解する」ってどういうこと? 「理解する」という現象を説明しろと言われたらどうしますか? 相手は小学生か中学生。好奇心旺盛で、濁した表現を嫌う子です。 ほとんどの人はできないと思います。 難しいです。 「理解する」という言葉を私たちは日常的に使いますが、理解に対する理解をあまりしていません。 今回は理解に関する考察の一つ、「理解の6側面」を紹介していきます。 すぐに役立つ内容ではないですが、知っておくと視点が増えるはずです。 理解の6側面とは? 「理解の6側面」はG. WigginsとJ. McTigheがその著書の中で示したものです。

    【理解の6側面】「理解する」とは何か、説明できますか?
  • 中2で起業、高1で母校買収した慶応生の正体 | 東洋経済education×ICT

    このプログラムは、小・中・高校生に向けた起業教育を提供している。そして、これこそが仁禮さんが取り組んでいる新しい教育の試みであり、彼女のたどってきた足跡をひもとくカギといっても過言ではない。さらに興味深いことに、その目的は、起業家を育成することにはないのだという。真の目的は、小・中・高校生が「自らの人生を切り拓く力」を育むことにあるそうだ。いったい、どういうことなのだろう。 仁禮さんは、小学1年生で既存の教育に疑問を感じ、中学2年生にして起業。1社目の会社を設立し、教育関連事業、学生・企業向け研修などをスタートさせた。そして、高校1年生の時には自身の母校である湘南インターナショナルスクールを買収。2016年には同じく教育関連事業を主体としたHand-C(現TimeLeap)を設立し、現在に至る。そもそも、なぜ小学1年生にして、既存の教育に疑問を感じ、中学2年生で起業するに至ったのだろうか

    中2で起業、高1で母校買収した慶応生の正体 | 東洋経済education×ICT
  • 「地位はあるけど教養がない」人たちの末路

    教養なビジネスパーソンは「危険な存在」 近代以降、ヨーロッパのエリート養成を担ってきた教育機関では長らく哲学と歴史が必修とされてきました。今日に至っても、たとえば政治・経済のエリートを数多く輩出しているオックスフォードの看板学部「PPE=Philosophy, Politics and Economics」(哲学・政治経済学科)では、哲学が三学領域の筆頭となっていますし、フランスの高等学校課程=リセでは、理系・文系を問わずに哲学が必修科目となっており、バカロレアの第一日目の最初に実施されるのは伝統的に哲学の試験とされています。パリにしばらく滞在した人であれば、バカロレアの哲学試験にどのような問題が出されたか、自分ならどう答えるかがオフィスやカフェで話題になっているのを耳にしたことがあるのではないでしょうか。 あるいはアメリカに目を転じても、エリート経営者の教育機関として名高いアスペン研

    「地位はあるけど教養がない」人たちの末路
  • 『悪法も法なり』は日本人を奴隷化するためのウソ

    学校教育では、ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言って毒杯をあおいで死んだという、まったく根拠のない虚構ともいうべき作り話を教えている。しかし、じつは彼が言ったのは「自分の哲学に殉じて死を選ぼう」という意味で、「悪法も法なり」とは真逆の意味だ。西洋では「確かに悪法も法ではある。しかし〝法だからといって従うべきではない”」と教えているのである。 ソクラテスが言ったといわれるこの「悪法も法なり」という台詞は、この国だけでしか通用しない捏造である。為政者が自分たちの都合のいいように意味を変え、ソクラテスの思想を全く無視し侮辱すらしている言語道断の誤訳であり、日人を奴隷化するための仕掛けだ。 http://j.mp/WmhEyN

    『悪法も法なり』は日本人を奴隷化するためのウソ
  • 佐久間亜紀・『信濃教育』2008年1月号「『教師力』なんて言うな!-悩める教師への賛歌」

    ***引用の際は、下記雑誌の出典を明記してくださるようお願いします*** 信濃教育会 『信濃教育』 1454号(2008年1月) 巻頭論文原稿 特集テーマ「教師の生き方を考え、指導力を磨く」 「教師力」なんて言うな!-悩める教師への賛歌 佐久間亜紀(上越教育大学) 「教師力」――こんな言葉は、ほんの数年前まで存在すらしなかった。いま、この言葉に、ざらざらした違和感を覚える人は、いったいどれくらいいるだろう。 この言葉は、私たちの教育や教師たちへのまなざしを一変させてしまう。「教師力」と言った瞬間に、教師としてどのように<在る>かではなく、教師として何をどれくらい<持つ>かが、問題にされてしまうから。そして、誰かに何かを教えるということが、教師と子どものあいだに成立する相互生成的な出来事ではなく、あたかも教師が一人でおこなう一方通行の出来事であるかのように錯覚させてしまうから。

    dimitrygorodok
    dimitrygorodok 2014/01/02
    "授業や読書は他者との対話であり、自分という存在や世界のありさまとの相互作用のプロセス/学ぶことは誰かと出会い、誰かとつながり、自分が変わること"
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