専修大学戦史研究会 @senkenHQ 軍事や安全保障、歴史、政治などを研究し、会報・他校戦史研との交流・講演会参加・自衛隊基地見学などの活動を行っております。在学生・外部学生問わずお気軽に参加可能です。 質問等はリプ、DMまで。 専大、そして全国のミリヲタよ、団結せよ! #春から専修 ※(旧)専修大学戦史研究会(@nifccacec)より移行しました。 melonbooks.co.jp/circle/index.p…
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紹介 本書は、「731部隊」研究の第一人者である著者が、その四〇余年にわたる調査・研究をまとめた集大成ともいえる1冊で、国内外の様々な史料の実証的な検証と、これまでの数十名におよぶ関係者への聞き取りをもとに731部隊・石井機関の全貌に迫ります。 「満州国」ハルビン郊外の平房に本部をおいた731部隊は、石井四郎が組織した機関、通称「石井機関」の一部で、石井機関は東京の陸軍軍医学校防疫研究室を中心に「軍」だけでなく「産・官・学」を取り込んだ1万数千人規模という巨大なものでした。 特に密接な関わりを持ったのは大学を中心とする医学界で、潤沢な研究費や戦役免除などのメリットがありました。 731部隊は1931年の満州事変を皮切りに勢力を拡大させていきますが、1942年の淅贛(せっかん)作戦で、大規模な細菌攻撃を実行するも失敗に終わりました。部隊は細菌兵器の実戦投入の困難性を認識しながらも止まることが
第2次世界大戦中に細菌戦の研究をした「731部隊」を本部とする旧関東軍防疫給水部(関防給)について調査している滋賀医科大名誉教授らが19日、戦後に政府が作成した関防給に関する公文書を発見し、組織機構や支部の隊員の所属、敗戦前後の行動の一端が明らかになったと発表した。支部で細菌を生産していたことも公文書で初めて裏付けられたという。「不明な点が多い組織の隊員一人一人の情報や、元隊員の証言などの根拠となる文書で、歴史を検証する上で意義深い」としている。 公文書は1950~51年に作成された「関東軍防疫給水部部隊概況」。滋賀医大名誉教授の西山勝夫さん(78)らが昨年、国立公文書館で見つけ、今年3月までに公開された計41枚を分析した。 公文書から、関防給は本部と五つの支部などから成り、それぞれの組織機構も裏付けられた。大連支部については「終戦時迄(まで)主として細菌の研究及(および)生産に住じていた
事実として認めたほうがいい過去 日本軍が起こした虐殺事件で最も有名なのは南京大虐殺です。 これはいまだに議論が盛んで、どういうわけかこの話になると普段は論理的な人も冷静さを失うほどです。 中国政府が発表する犠牲者の数が年々増えたり、多分に政治利用されているフシはありますが、火のないところに煙は立たないというか、数はともかく事実として事件はあったはず。 この、事実として受け入れるということが大事で、外からみたら日本の右派的な言説があれこれイチャモンをつけてなかったことにしようとしているように見えるので、かなり心象が良くないです。 今回は日本でも忘れられがちな「日本軍の虐殺事件」を見ていきたいです。 1. ラハ飛行場虐殺事件(1942年2月) 掃海艇破壊の報復で300名以上のオーストラリア兵とオランダ兵を虐殺 蘭印攻略を進める日本軍は1942年1月からアンボン島を空襲し、2月からオーストラリア
慰安婦や慰安所の実態はどこまでわかってきたのでしょうか。1993年、当時の河野洋平官房長官は「河野談話」で、慰安所の設置、管理に旧日本軍が関与していたことを明らかにしました。警察や軍の公文書などの資料をもとに、慰安所は軍の施設として設置されたことを明らかにした永井和・京都大大学院教授ら歴史研究者に、「河野談話以降」の研究の現状について聞きました。 ■募集や渡航、軍が警察に協力を要請 慰安施設設置のため、軍の規則改定 ――研究を始めた経緯は。 「1998年に授業で慰安婦問題をめぐる歴史論争を取り上げたのがきっかけで、慰安所成立の経緯を史料に即して解明しようと考え、2000年に最初の論文を発表しました」 ――明らかになった事実は。 「日本軍の慰安所は軍が設置した軍の後方施設であることを軍や警察の公文書で実証しました。軍の組織である以上、軍は慰安婦問題に対する責任を免れないことになります。『慰安
静岡市の製紙工場で、孫文などのすかしが入った特殊な用紙が見つかった。明治大学の研究者が確認し、旧陸軍登戸研究所の発注で中華民国の紙幣を偽造するために作った用紙と判断した。戦前に特殊兵器を開発していた同研究所では偽札も作っていたという証言があり、民間企業を巻き込んで偽札が製造されていた実態が浮かび上がった。 明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)が昨年7月、「巴川(ともえがわ)製紙所」(本社・東京)の静岡市駿河区にある工場で確認。約30センチ四方279枚がつづられていた。 資料館によると、用紙には中華民国建国の父・孫文の横顔のすかしがあり、絹の繊維がすき込まれていた。当時の中華民国で広く流通していた5円札の特徴だった。北京の歴史的建造物「天壇」のすかしが入った紙もつづられており、これも当時の別の5円札の特徴という。すかしの出来や絹の繊維の密度などを点検した形跡もあった。 記されてい
ネトウヨ・極右勢力による策謀の成果であった「はだしのゲン」閉架化が、反戦勢力からの反撃で無効化されてしまい地団太を踏んでいる産経新聞は、「「偏った思想の宣伝道具」「知る自由保障が役割」 「はだしのゲン」制限撤回に賛否」と題するプロパガンダ記事を2013年8月26日に掲載しています。 産経新聞社内では虚偽を含まない記事を書いたら処罰の対象にでもなるのか、と思わされるくらい産経新聞には虚偽の内容が溢れています。 今回取り上げたプロパガンダ記事では、岩田温氏の無知を利用した印象操作が行われています。 政治学者の岩田温(あつし)秀明大専任講師(29)が指摘するのは、市教委が過激で不適切として閲覧制限を決めた、旧日本軍の兵士が首を刀で切り落とし、女性に乱暴して惨殺する−という描写だ。 岩田講師は「旧日本軍の一部に逸脱した行為があった可能性はあるが、まるで軍全体の方針であったかのように描かれている。児
映画「陸軍登戸研究所」公式ツイッターページはこちらから ポレポレ東中野 楠山忠之(くすやまただゆき)監督トーク日程とゲスト出演者 15日(土)斎藤充功(さいとうみちのり):ノンフィクション作家「陸軍中野学校の真実‐諜報員たちの戦後」他 16日(日)近藤昭二(こんどうしょうじ):NPO法人731部隊・細菌戦資料センター代表 17日(月)小岩昌子(こいわまさこ):風船爆弾の紙張りに動員 19日(水)中島光雄(なかじまみつお):名古屋造兵廠で風船爆弾の検査役 20日(木)太田圓次(おおたえんじ):登戸研究所勤務 風船爆弾を試験放球 21日(金)宮永和子(みやながかずこ):元“登研”保存の会 風船爆弾レプリカ作成 22日(土)宇佐照代(うさてるよ):アイヌ口琴ムックリ演奏 23日(日)石原たみ(いしはらたみ):スタッフ:インタビュアー 24日(月)北野英子(きたのえいこ):東京・日劇で挺身隊として
大島軍曹は即座に上官の「鶴の一声」に従い、 「では、列の最後尾にいる者から順番に刺突することにする。最後尾にいる者は前へ出ろ」 と怒鳴った。しかし、誰も前に出る者はいない。私たちの間にざわめきが起こった。列にビリにいるのは馬場二等兵にきまっている。その馬場はすっかり臆してしまって前へ出ないのだ。 「最後尾にいるのは馬場二等兵だな。馬場、前へ出んか!」 大島軍曹がまた怒鳴った。しかし、馬場は返事もしなければ前へもでない。たまりかねた亀岡兵長が馬場二等兵のもとへ飛んで行って、 「馬場二等兵、貴様、班長殿がおっしゃっていることが聞こえんのか」 と、馬場二等兵の胸ぐらをつかんで、前へ引きずり出した。 「さあ、銃剣を構えるんだ。そして標的めがけて突進するんだ。なにも恐れることはない」 亀岡兵長はいちいち馬場二等兵の手をとって、どうにか銃剣を構えさせた。 「突っ込め!」 兵長は馬場の肩を力一杯押した。
NHKスペシャル取材班、『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』、新潮社 関連エントリ: http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090809/p2 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100829/p1 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100906/p1 09年に放送されたNHKスペシャルの取材班が取材のいきさつや舞台裏、番組に盛り込めなかった発見や作り手サイドの思いなどについて書いた本。戸田一成氏が編集した『[証言録]海軍反省会』がPHPから出たことについては「まあそんなところか」と思ったが、NHKの出版部門ではなく新潮からこの本が出たというのはどういういきさつによるものだろうか。その手の事情に通じていないので……。まあ新潮が好みそうな題材とは言えるだろうし、スタッフの個人的な思いが前面に出
大統領に対する侮蔑発言などで辞任した、元アフガニスタン駐留米軍指揮官、スタンリー・マクリスタル大将(Gen. Stanley McChrystal)が、木曜日にアフガンの現状について述べたとmilitary.comが報じました。 マクリスタル大将は外交評議会で述べた言葉で、アメリカとNATO軍の同盟国は戦争目標の50パーセントを少し上回るだけしか達成していないと言いました。彼は達成すべき残された仕事で最も難しいのは、普通のアフガン人が信頼でき、タリバンの拮抗勢力として機能する合法的な政府を作り出すことだろうと言いました。「私たちは十分に知りませんでしたし、今でも十分に知りません」「私を含めて、私たちのほとんどは、状況と歴史についてあまりにも単純な見方をしており、少なくとも50年間の最近の歴史について驚くほど単純な見方をしていました」。米軍はアフガンの言語を知らず、それらを学ぶための効果的な
◆残虐行為 見聞をつづる◆ 2冊の従軍手帳がある。 手のひら大の黒革の表紙。錦米次郎が、癖のある豆粒のような字をびっしりと書き込んでいる。1939年分は合計98ページ、約6千行に及ぶ。 南京事件後の39年の元日、「南京で思い出し難いのは難民共のことだ」と記している。その後の4行は黒塗りされ、三重大教授の尾西康充(44)は「帰国の際、憲兵の検閲を受けて削除された」とみる。 黒塗りの後はこう続く。「世界大戦の時、巴里(ぱり)には処女は一人もいないと本で読んだことがあるが、自分らのいた南京もそういえないことはない」「自分は正月を迎えるごとに南京を思い出すだろう。それほど南京の街町は自分の脳裏に焼き付けている」 南京攻略戦は、錦が所属した陸軍16師団などが中心となった。16師団長は南京警備司令官として「峻烈(しゅんれつ)な残敵掃討」を命じた。 錦の軍隊手帳では「37年12月2日から12
副題:浜田知明が銅版に刻んだ三光作戦 『浜田知明の山西省での従軍体験(1) - Transnational History』の続きです。 今日も初年兵として中国の山西省へ従軍した経験(1940年〜1943年)を持つ浜田知明の銅版画を紹介しながら、版に刻まれた日本軍が抗日根拠地にたいしておこなった「粛清(しゅくせい)作戦」「燼滅掃蕩(じんめつそうとう)作戦」(中国側では「三光作戦」「三光政策」と呼ばれている)について書いていくことにする。 浜田知明はまだ戦争の記憶が生々しく残っていたであろう1950年代前半という時期にモノクロームの版画を通していくつもの作品を生み出している。 浜田「是が非でも訴えたいものだけを画面に残し、他の一切を切り捨てた。色彩を捨て、油絵具という材料を捨て、そして白黒の銅版を選んだ。ひたすら自分に誠実であろうとすることだけが私の支えであった。戦場と軍隊をモチーフとして若
4ヶ月ちかくブログの更新をしていなかったので、今日も少し前のことになるが書いてみる。 9月のことになるが、ぼくは葉山にある神奈川県立近代美術館へ『浜田知明の世界展 - 版画と彫刻による哀しみとユーモア』を見に行った。 入り口の写真 浜田知明は初年兵として中国の山西省へ従軍し、そのときの戦争体験を銅版画にした<初年兵哀歌シリーズ>(1950〜54年)で知られるアーティストで、今年、92歳になるが、いまも現役で活躍!している。 最も有名なものは1954年製作の、三八式歩兵銃の引鉄に足の親指をかけている、どこか水木しげる風タッチな「初年兵哀歌 歩哨」という作品であろうか。 ヒロ画廊/浜田知明/作品 http://www.hirogallery.com/hamada-works-et-jp.html 初年兵哀歌 歩哨 - 1954 軍隊の内務班で私的制裁が横行したことはよく知られるところであるが、
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/technology/i52.htm ・・・こういう話はおもしろいよね。 ▼2009年11月25日(水) 内田樹「器に合わせすぎては、学びは起動しないのです」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/58 >前に「監督術」というテーマで、韓氏意拳(かんしいけん)の守伸二郎さんと、大学野球の監督をしている高橋佳三さんと、元神戸製鋼ラグビー部の平尾剛さんとディスカッションしたことがあるんです。そのとき「日本の少年スポーツ界では、なぜ子どもたちの人格を全否定して追い込むようなトレーニング法が、野球をはじめどの種目でも見られるのか」ということが話題になった。 >もちろん、みんなそのやり方には批判的なんだけれど、成功例がなければこれほど広範に採用されることはないわけで、それなりに成功するわ
military.comによれば、アブ・グレイブ刑務所の収容者虐待事件の象徴的な存在である元上等兵リンディ・イングランド(Lynndie England)が米議会図書館で行われる退役軍人のフォーラムで講演することになりましたが、抗議が殺到したために、中止されることになりました。 イングランド元上等兵はゲーリー・S・ウィンクラー(Gary S. Winkler)が書いた彼女の自伝「"Tortured: Lynndie England, Abu Ghraib and the Photographs That Shocked the World.」について講演する予定でした。しかし、暴力の行使を含む複数の抗議が殺到したため、中止が決定しました。ベトナム戦争の退役兵で議会図書館の収集専門家デイビッド・ムーア(David Moore)が、決定に失望しながらも支持すると述べました。彼はこの事態の責任が
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