戦後の道内画壇をリードした函館出身の画家岩船修三(1908~89年)が、戦時中に国民の戦意高揚のために描いた戦争画が函館護国神社に保管されていることがわかった。旧日本軍守備隊が全滅した1943年(昭和18年)のアッツ島の戦いを描いた作品で、縦約190センチ横約280センチと戦争画としては道内最大とみられる。専門家は「これほど大型の作品が戦後80年近くたって見つかることは珍しい。アッツ島玉砕に対する軍の思い入れの強さを示す重要な作品だ」と話している。
Published 2021/08/15 07:00 (JST) Updated 2021/08/16 11:56 (JST) 太平洋戦争末期、米艦に零戦機などで突っ込み、時に〝軍神〟とあがめられたり、時に「無駄死にだった」と切り捨てられたりもした特攻作戦の悲劇。出撃前の特攻隊員には覚醒剤「ヒロポン」が与えられていた。この問題は真正面から研究された様子がないが、大阪の元中学教員の相可文代さん(71)は、勤労奉仕で覚醒剤入りのチョコレートを包む作業に従事した女学生の実体験を知ったことをきっかけに独自に調べ、このほど冊子にまとめた。 覚醒剤と知らされず服用し命を散らした若者らの悲哀と、上官や国家体制の無責任さ。志願制とは名ばかりの死への強制の中で、最後には薬物も使った特攻作戦はまさに「統率の外道」(大西滝治郎海軍中将)だ。「祖国に命をささげた美談のように語られるが、実際には覚醒剤による高揚感に
1939年、旧日本軍が旧ソ連・モンゴル軍と戦って敗れた国境紛争「ノモンハン事件」で、戦地を無断撤退した責任を問われ自決に追い込まれた旧陸軍の指揮官が、「戦病死」として処理されていたことが、遺族が開示請求した公文書で分かった。軍上層部が虚偽の報告をしたとみられ、遺族は「敗戦の責任を押しつけた上に事実を隠蔽[いんぺい]した」と疑念を深めている。 指揮官は兵庫県出身の井置栄一騎兵中佐(享年45)。熊本で編成された第23師団の捜索隊長として、激戦地の一つ「フイ高地」の現地部隊を指揮した。旧防衛庁が編さんした公刊戦史「戦史叢[そう]書 関東軍1」(69年)は、敵軍の猛攻により壊滅的な状況に陥る中で「独断守地を撤した」責任を取り、「自決の道を選んだ」と記述。自決は日ソが停戦協定を結んだ39年9月15日の2日後とされる。中佐は上層部から自決を勧告されたともいわれる。 遺族には翌月、陸軍から中佐の死を知ら
いわゆるシベリア抑留などで亡くなった4万人を超える人たちの名簿を一人でまとめ、この春、88歳で亡くなった新潟県出身の村山常雄さんが残した膨大な資料が、都内の大学施設で保管され、今後の研究に生かされることになりました。 みずからもシベリアに抑留された村山常雄さんは、70歳を迎えた平成8年から、シベリアなどに抑留され亡くなった人たちの調査に一人で取り組み、国内外の資料を集めたりシベリアの墓地を訪ねたりして、およそ4万6300人の名簿を作り上げました。 村山さんはことし5月、88歳で亡くなりましたが、さいたま市の家族の元に残された500点を超える膨大な資料が都内の大学施設で保管されることになりました。 保管されるのは大阪経済法科大学の東京・港区にある施設で、自由に閲覧できるようにするなどして今後の研究に生かされるということです。 終戦直後、シベリアなどに抑留され、寒さや飢えで亡くなった人は5万5
先の大戦で負傷や病気をした元兵士でつくる「日本傷痍軍人会」が、会員の高齢化で解散することになり、3日、東京都内で式典が行われました。 戦時中から戦後を通じた厳しい生活の体験を基に平和を訴え続けた活動が、戦後68年で1つの区切りを迎えました。 日本傷痍軍人会は、先の大戦で戦闘中に負傷したり戦地で病気になったりした元兵士が作る団体で、戦後も仕事に就くことができないなど厳しい生活が続く人が多いなか、国に援護の充実を求めてきました。 戦後68年がたって、35万人いた会員は5000人に減り、残った会員も平均年齢が92歳と高齢化が進んでいることから、来月末で解散することを決めました。 3日、東京・渋谷区の明治神宮会館で創立60年の記念式典と解散式が行われ、全国の会員らおよそ1200人が出席しました。 記念式典では、天皇陛下が「戦傷病者とその家族が歩んできた歴史が、決して忘れられることなく、皆さんの平和
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