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まちと鉄道に関するmukunokiy0725のブックマーク (4)

  • 奥沢線(新奥沢線)死亡公告

    以前にも記したように、古い官報を読み漁っている日々が続いているが、今回は当blogでも何度も採り上げている池上電気鉄道奥沢線(新奥沢線)の死亡公告とも言うべき、1935年(昭和10年)11月30日付け官報に掲載された記事を紹介する。 以下に書き起こせば(漢字は現在のものに置き換え)、 鉄道一部運輸営業廃止実施 年九月十九日目黒蒲田電鉄株式会社ニ対シ雪ヶ谷、新奥沢間鉄道運輸営業廃止ノ件許可セル処 月一日之ヲ実施セル旨届出アリタリ(鉄道省) という何ともあっさりとした記事だが、必要十分な内容は持っている。既に池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄に合併されており、廃止申請は目黒蒲田電鉄が行ったわけだが、廃止許可後、およそ1か月半弱で廃止したのは当時としては長かったのか短かったのか、はたまた妥当だったのか…。 といったところで、今回はここまで。

    奥沢線(新奥沢線)死亡公告
    mukunokiy0725
    mukunokiy0725 2014/08/04
    奥沢から雪谷大塚に鉄道が通っていたのか。奥沢駅から南に行く道沿いだったのだろうか
  • ベンガラ塗りの古塔(天正18年10月13日、大姥局、池上本門寺を参詣する(推測))- 今日の馬込文学/馬込文学マラソン

    mukunokiy0725
    mukunokiy0725 2013/06/16
    昨日図書館で『大田区史』下巻を読んでいたら明治18年御会式の日に起きた臨時列車の脱線転覆事故についての記述が出ていて、大森駅にある木製の碑はその慰霊碑ではないかと思ったがそうらしい。
  • GNR - 大森駅構内列車脱線事故碑

    概要 実は、この碑については以前小ネタ 第四巻『これは何 ?』にて謎として取り上げていたが、その後正体が判明したものである。この碑はなんと大森駅構内で起きた我が国最初の鉄道による旅客死亡事故の慰霊碑である。 1885 (明治 18) 年 10 月 13 日深夜 1 時頃、現在も続く池上門寺の御会式の参詣者を乗せた客車が同駅構内の分岐器上において脱線転覆し、乗客一名が死亡したのである。発生原因は機関士の入換合図の見誤りとされ、これにより開通していない状態の分岐器に割り込んだのである。 現在の大森駅では保線車両の留置線と思われる線路への分岐以外通常の営業線では分岐器は見当たらいようであるが、かつては営業列車を転線させる分岐器が存在したのだろう。 なお、この碑の建立場所は大森駅に停車しない東海道線の上下線の間であり、残念ながら接近することができない。京浜東北線の蒲田方ホームのからのみ観察可能

    mukunokiy0725
    mukunokiy0725 2013/06/16
    昨日図書館で『大田区史』下巻を読んでいたら明治18年御会式の日に起きた臨時列車の脱線転覆事故についての記述が出ていて、大森駅にある木製の碑はその慰霊碑ではないかと思ったがそうらしい。
  • 「時刻表の父」顕彰碑除幕 : 山口 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    国内で初めて格的な時刻表を発刊し、「時刻表の父」と呼ばれる手塚猛昌(1853~1932年)の顕彰碑が、出身地・萩市須佐のJR須佐駅前に完成し、5日、除幕式が行われた。 手塚は、福沢諭吉の勧めで1894年(明治27年)に全国の鉄道や汽船などの時刻表、紀行文を掲載した月刊時刻表「汽車汽船旅行案内」を発刊し、近代日の発展の一翼を担った。都電の前身の東京市街鉄道や帝国劇場の創設などにも尽力した。 碑は高さ1・2メートル、幅1メートルの地元産斑れい岩製。地元住民らでつくる実行委員会が寄付を募り、建立した。 式は、10月5日の発刊日にちなんだ「時刻表記念日」に合わせて行われ、ひ孫の末岡はるみさん(72)、野村興児市長ら約30人が出席。西村武正実行委員長が「手塚氏は、新しい物に挑戦し成し遂げた。人物、功績を多くの人に知っていただくよう努めたい」とあいさつした。 手塚の関係資料などを集めた顕彰展が16

    mukunokiy0725
    mukunokiy0725 2011/11/19
    郷里の話題ゆえ。
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