ときは明治15(1882)年12月。溝の口石工・内藤留五郎は、高石にある法雲寺に無事奉納された馬頭観音像を見上げながら大きなため息をついた。 隣には、四半世紀前の安政3(1856)年に、登戸の石工・吉澤藤三光信が造った馬頭観音像がある。 それを見下ろす形で、留五郎が作った馬頭観音像は、円柱の基盤の上に3段の台座を重ね、さらにその上に蓮座を置き、設置されている。地面からの高さは吉澤が造った馬頭観音像の倍以上になる。 もう、無理矢理高くしている。何がなんでも吉澤の馬頭観音には負けないという、あからさまな見栄がみえみえ。テレビチャンピオン石工デコレーション大会決勝というノリである。 留五郎は心の中で呟いていた。 「ついにここまできた。溝の口の田舎石工と馬鹿にされながらも、わしはついに川崎一の石工になった。今、わしの右に出る石工はこの界隈ではいないだろう」 もともと川崎というのは、華やかな江戸や粋