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近代史と人生に関するCruのブックマーク (11)

  • Manga Study Guide: Barefoot Gen/Author’s life and experience - Wikibooks, open books for an open world

  • 13歳でナチスから逃れ、95歳で伝説のホテルを経営する女性の数奇な人生 | ヘミングウェイもボブ・ディランも滞在したボヘミアンな宿

    ナチスの手を逃れ、ニューヨークにたどり着いたユダヤ人の少女は、紆余曲折を経てマンハッタンにある古いホテルのオーナーになった。95歳になったいまも経営に携わるその女性を、米紙「ニューヨーク・タイムズ」が取材した。 「ホテル・アール」に引っ越しても構わないか──1980年のある夜、リタ・ポールは夫のダニエルにそう尋ねた。 そのホテルは、ニューヨークはマンハッタンのダウンタウンにある、グリニッチビレッジのウェーバリー通りとマクドゥーガル通りの交差する角に立つ。 それはさほど奇妙な頼みごとでもなかった。ポール一家は1973年から、当時すでに築70年だったアールを所有していた。アールは、ポール家が手に入れる頃にはすでに、飾り気のない居住用ホテルから幅広い客層を引き寄せる型破りな隠れ場へと発展していた。 リタ・ポールは自分の隠れ場として、4階にあるつながった4室に目をつけていた。「当時は空室がたくさん

    13歳でナチスから逃れ、95歳で伝説のホテルを経営する女性の数奇な人生 | ヘミングウェイもボブ・ディランも滞在したボヘミアンな宿
    Cru
    Cru 2022/11/26
    日本で言えば昭和の初年に生まれたおばあちゃんがひさうちみちおみたいなエロい絵を描くんだねぇ
  • 「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生” | 文春オンライン

    愛新覚羅氏をご存知だろうか? かつて中国大陸を支配していた「清」という王朝の皇帝の一族である。 もともと、現在の北朝鮮の国境とほど近い地域(現在の撫順市と通化市の間あたり)を拠点とした満洲族(女真族)の首長・ヌルハチがご先祖だ。ヌルハチは1616年に即位し、次代のホンタイジが国号を「大清」に改め、3代目の順治帝の時代に中国土に進出。やがて康煕帝・雍正帝・乾隆帝の3賢帝の時代に極盛期を迎えた。現在の中華人民共和国の領域も、外モンゴルと台湾を除けばほぼ清朝の範囲を継承している。 清朝は1840年のアヘン戦争を境に衰退し、1911年の辛亥革命で滅びた。ただ、最後の皇帝・溥儀はやがて日の関東軍に利用されて傀儡国家の満洲国の皇帝として即位、戦後は収容所を経て、最後は一般市民として北京市内で没する。このあたりの話は、映画ラストエンペラー』や、溥儀の弟の溥傑に嫁いだ日人・浩の自伝『流転の王妃』な

    「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生” | 文春オンライン
    Cru
    Cru 2022/07/22
    イミグレの人はラストエンペラーでも観てたんかね
  • 発掘,史上初の純国産ビデオゲーム! HITAC 10で開発され,1973年にお披露目されたゲームと,それが後年に与えた影響とは

    発掘,史上初の純国産ビデオゲーム! HITAC 10で開発され,1973年にお披露目されたゲームと,それが後年に与えた影響とは ライター:hally 12→ 1973年7月,一般的に“日初のビデオゲーム”とされるタイトーの「エレポン」や,セガ・エンタープライゼスの「ポントロン」が発売された。しかし,これらはあくまでAtariの「PONG」をコピーしたものであり,開発の面からすれば当の意味で“日初”であるとは言い難い。 では“日人が自ら考案・設計した最初のビデオゲーム”とは,いったい何なのだろうか? その答えが,意外なところで見つかった。調査によって,1973年の11月に,岩手大学の大学祭で「電子パチンコ」および「電子ボーリング」なるビデオゲームが,学術用ミニコンピュータ・HITAC 10をプラットフォームとして公開されていたことが明らかになったのだ。現在探しうるうちでは,これが恐ら

    発掘,史上初の純国産ビデオゲーム! HITAC 10で開発され,1973年にお披露目されたゲームと,それが後年に与えた影響とは
    Cru
    Cru 2021/01/21
    佐藤氏という高卒の技術職員が凄くて平畠氏というのはその指導で最初にゲーム作ったから呼ばれたのね、と思いながら読んでたら、後半は平畠氏のターンだった。やっぱ教育って重要。職能あっても非正規雇用じゃダメよ
  • 【完全版】ジャズばあちゃん 夢のセッション アメリカ

    感動ドキュメント 2000年放送 おばあちゃんは、2009年10月に他界されています。 ※ビデオテープの経年劣化に起因する映像・音声の乱れがあります。また、一部音声を加工してあります。

    【完全版】ジャズばあちゃん 夢のセッション アメリカ
    Cru
    Cru 2019/02/06
    すげー
  • 「僕には国籍がなかった」87歳の報道カメラマン・瀬戸正夫さんに聞く波乱万丈なメシの話 - メシ通 | ホットペッパーグルメ

    タイ生まれ、無国籍。激動のタイを記録してきた 報道カメラマンとして、第2次世界大戦後、激動のタイを記録してきた瀬戸正夫さん(87歳)。波乱万丈の人生のなかで、瀬戸さんの思い出に残っている事について聞く機会をいただきました。 瀬戸正夫さんプロフィール 1931年、南部プーケットで日人の父とタイ人の母との間に生まれ、終戦後、両親と離れ離れとなり、日人抑留キャンプで収容生活を送る。その後、日国籍を失い、タイ国籍を取得するまで約20年、無国籍だった一方、職を転々とするなど、歴史に翻弄(ほんろう)された半生を送ってきた。朝日新聞バンコク支局(現アジア総局)で助手兼カメラマンとなり、タイを中心に激動の東南アジアを取材。また、日のNGOの活動なども手伝いながら、少数民族やスラムの子どもたちなども撮り続けている。 ▲瀬戸さんと愛車の三菱ランサー ©️瀬戸正夫 ──お生まれはプーケットですよね。

    「僕には国籍がなかった」87歳の報道カメラマン・瀬戸正夫さんに聞く波乱万丈なメシの話 - メシ通 | ホットペッパーグルメ
    Cru
    Cru 2018/10/01
    http://www.seikatsujoho.asia/burogu/seto.html これか。からゆきさんの奥さんと実の息子を置いて一人で帰国か。父君は戦前の日本の男性にありがちな価値観をお持ちだったのかしら
  • 関屋敏子 - Wikipedia

    関屋 敏子(せきや としこ、1904年(明治37年)3月12日 - 1941年11月23日[1][2])は、日の声楽家(ソプラノ)、作曲家である[1]。旧字の關屋が使われる時がある。 人物・来歴[編集] 1904年3月12日、実業家の父・関屋祐之介、母・愛子の娘として東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)に生まれる[2]。父方の家系は二松藩の御殿医であり、母方の祖父はフランス系アメリカ人外交官チャールズ・ルジャンドル、母方の祖母は池田絲である[2]。伯父は十五世市村羽左衛門[2]であり、日の古典にも精通していた[3]。敏子の育った家は敷地2000坪あり、祖父のルジャンドルが購入したものだった[4]。従兄は第11代宮内次官や第16代静岡県知事を務めた関屋貞三郎。 4歳のころから琴や舞踊、長唄に親しみ、旧制・東京女子高等師範学校附属小学校(現在のお茶の水女子大学附属小学校)に入学、1

    関屋敏子 - Wikipedia
  • 「浮浪児」、助けなき路上の日々 戦争孤児が見た社会の姿:朝日新聞デジタル

    誰も助けてくれなかった――。73年前の終戦後。東京・上野駅など各地の大きな駅には「浮浪児」と呼ばれた子どもたちがいた。親を失った戦争孤児。多くの命が路上に消えた。駅の子たちの目にうつった社会、大人の姿とは。 ■駅で物乞い・磨き…何でもやった 終戦後初めての冬。当時6歳だった奥出廣司さん(7…

    「浮浪児」、助けなき路上の日々 戦争孤児が見た社会の姿:朝日新聞デジタル
  • 【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編)

    <2016年5月27日にバラク・オバマ米大統領が広島を訪問するのに先立ち、誌は原爆投下を決断した第33代大統領ハリー・トルーマンの孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルを訪ねていた。2時間余りに及ぶインタビューの中で、ダニエルが率直に語った「祖父の決断」とその責任、そして、彼自身がヒロシマ・ナガサキの被爆者と交流を続ける理由とは> (写真:トルーマン元大統領と幼き日のダニエル、1959年) 謝罪(apology)──バラク・オバマ米大統領の広島訪問を前に、日米両国でにわかにこの言葉への注目が高まっている。オバマは日人に謝罪すべきなのか。日国民は米大統領に謝罪を求めるのか。戦時中の行為をめぐる「謝罪」について、日はこれまで他国から求められることはあっても、こと原爆に関してアメリカにそれを求める声は大きくなかった。 では国家間の話ではなく、「当事者同士」という個人レベルの謝罪についてはど

    【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編)
  • 元捕虜収容所長を祖父に持つ記者と日本軍捕虜だった米国兵の対話(小暮 聡子)

    2015年8月15日、日は戦後70周年を迎えた。日が語る「国家」としての歴史が議論される一方で、第二次大戦には当時を生きた一人一人の物語がある。それはそれぞれの国で、体験者それぞれの「真実」として、多くの場合苦しみを伴いながら今後も語られていく。その戦争の記憶に「終止符」を打てる日は来るのだろうか——。 その思いをもとに元捕虜収容所長の祖父を持つ記者小暮聡子氏が、日軍捕虜だったアメリカ兵に会いにいった。3年前のルポルタージュをデジタルで初公開する。 捕虜たちが見た地獄 2015年6月初め、私は祖父が残した物語といま一度向き合うため、赴任先のニューヨークから米南部のニューオーリンズ空港に降り立った。ジャズの街ニューオーリンズは既に夏真っ盛りで、空港を出るとむわっという熱気が身を包む。車で30分も走れば音楽と酒にまみれた繁華街フレンチクオーターに到着するが、私を乗せたタクシーが向かう先は

    元捕虜収容所長を祖父に持つ記者と日本軍捕虜だった米国兵の対話(小暮 聡子)
  • リアル『永遠の0』アメリカ人捕虜と語る「戦争犯罪人」としての祖父(小暮 聡子)

    戦後70周年を迎えようとしていた2015年6月、ニューズウィーク日版記者の小暮聡子氏は、日軍捕虜となった元アメリカ兵やその家族の話を聞くためにアメリカで開かれた「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会(ADBC)」年次総会を訪れていた。 元捕虜収容所長を祖父に持つ小暮氏は、元捕虜たちが自分に心の内を明かしてくれるか不安だったが、元捕虜のスターク氏は「あなたにはすべて話そう」と当時の地獄のような捕虜生活について語り始める。飢えに苦しみ、わからない言葉の中で暴力も振るわれる毎日。そして、戦後も家族にまで受け継がれる苦しみの記憶。その記憶に終止符を打てる日は来るのだろうか。 話し終えたスターク氏は、「次はあなたが話す番だよ」と小暮氏に促した。 デジタルメディア初掲載の渾身ルポルタージュ後編。 28歳で捕虜400人を管理していた祖父 祖父、稲木誠は44年4月から終戦まで、岩手県釜石市にあった収容

    リアル『永遠の0』アメリカ人捕虜と語る「戦争犯罪人」としての祖父(小暮 聡子)
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