Published 2023/04/06 17:59 (JST) Updated 2023/04/06 18:15 (JST) 松野博一官房長官は6日の記者会見で、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を創設した故・文鮮明氏が1992年に来日した際、当時の法相が特別に入国を許可した対応に関し、問題はなかったとの認識を示した。「法相の判断として適切だったと聞いている」と述べた。
韓国外務省が6日に公開した過去の外交文書で、およそ30年前に旧統一教会の創始者が日本を訪れた際に、当初は日本政府が入国を許可しない方針だったものの、当時の自民党幹部が働きかけを行い、最終的に入国が認められたなどとする経緯が明らかにされました。 韓国外務省は、作成から30年が経過した外交文書を原則公開しています。 6日に公開された文書には、1992年に、旧統一教会の創始者、ムン・ソンミョン(文鮮明)氏が日本を訪れた際の、駐日大使から外相への公電の内容が含まれています。 アメリカで服役したことがあるムン氏は、出入国管理法によって本来は日本への入国が許可されない人物でした。 文書によりますと、韓国側が日本の外務省にムン氏の入国の経緯を非公式に尋ねたところ、当初は法務省が入国を許可しない方針だったものの、当時自民党の副総裁だった金丸信氏がムン氏を保証するとしたことで、最終的に入国が認められたとして
ソ連海軍が作成した地図。北海道や対馬など占領を検討した地域には印がしてある(ロシア連邦外交政策文書館所蔵) 第2次世界大戦の日本の敗戦を機に、当時のソ連軍が北海道全島をはじめ、対馬や朝鮮半島南部の港など広範囲の占領を検討していたことが、ロシア連邦外交政策文書館がオンラインで公開している公文書に記録されていた。記載内容を、岩手大の麻田雅文准教授(東アジア国際政治史)が確認した。 【動画】「前にいた軍人が爆弾の直撃受け…」満州でソ連軍の侵攻を経験した男性の証言 確認されたのは、1945年8月16日にソ連首相のスターリンが、北海道北半分をソ連軍の占領地域とするよう米側に要求した内容の基になった草案。ソ連の赤軍参謀総長アレクセイ・アントーノフらが同日にモロトフ外務人民委員に提出したもので、「日本の主要な島々を、連合国のための占領地域に分割し、特にソ連には北海道を割り当てる」と、北海道全島占領を求め
湾岸戦争直前の1990年にイラクで人質にされた日本人の解放をめぐる、当時の中曽根元総理大臣とフセイン大統領の会談内容が、公開された外交文書で明らかになりました。 中曽根氏が日本は中立的な立場だと強調し、和平交渉に協力する姿勢を示しながら、解放を働きかけた様子がうかがえます。 今回、公開されたのは、1989年から1991年に作成された外交文書で、1990年8月のイラクによるクウェート侵攻で湾岸危機が起きた前後の極秘扱いとされていた公電なども含まれています。 クウェート侵攻で起きた湾岸危機の際、イラクは、軍事行動の構えを見せるアメリカなど各国に対し、外国人を人質にとって対抗し、攻撃目標になり得る石油施設などに拘束したことから“人間の盾”とも呼ばれ、日本人も213人が人質になりました。 公開された外交文書では、クウェート侵攻から3か月後の11月に人質の解放交渉のためにイラクを訪問した中曽根元総理
太平洋戦争中の「徴用」をめぐる問題で、外務省が日韓請求権協定の交渉過程を記録した外交文書を公開したことについて、韓国外務省は「新しく発見されたものではなく、韓国の最高裁判所も関連する内容を考慮して最終判決を下している」として、日本企業に損害賠償を命じた判決を尊重するという従来の立場を強調しました。 文書では、韓国側の代表が「徴用」に関する補償について「精神的・肉体的苦痛」が含まれるとしたうえで「韓国が国として請求し、支払いは国内措置とする」としています。 このため外務省は「請求権協定に『徴用』の慰謝料が含まれるのは明白で『個人請求権は消滅していない』とする韓国側の主張は矛盾している」と指摘しています。 これについて韓国外務省は30日、「新しく発見されたものではなく、韓国の最高裁判所も審理の過程で関連する内容を考慮して最終判決を下している」とするコメントを出し、日本企業に損害賠償を命じた判決
12日公開の外交文書には、1983(昭和58)年1月に訪米した中曽根康弘首相が、米紙ワシントン・ポスト社主との朝食会で「日本列島を不沈空母のように強力に防衛する」と述べたと記録されていた。 ポスト紙の報道後、中曽根氏は発言の有無に関し、説明を二転三転。後年のインタビューなどでは、実際は「高い防壁を持った大きな船」と表現し、それを通訳が意訳したと語っている。取扱注意とされた文書では、不沈空母発言について中曽根氏がポスト紙側の質問に、率直に答えた様子が見てとれる。ポスト紙がすぐに報じたが、日本政府は同行記者団に発言を紹介していなかったため、記者団が政府側に確認を求めた。 中曽根氏は帰国前の記者会見で発言を否定したものの、帰国中の機内では一転して認め、国会でも同様の答弁。政界引退後のインタビューでは「通訳が、だいぶ意訳をした」「正確ではないと気付いたが、この方が分かりやすく、異を立てなかった」と
43年8月、チャーチルとルーズベルトがカナダ・ケベック州で原爆を共同開発すると決めた秘密協定「ケベック協定」。米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できない=英国立公文書館所蔵(岡部伸撮影) 【ロンドン=岡部伸】第二次大戦中の1945年7月、英国のチャーチル首相(当時)が米国による日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。約1カ月後の広島と長崎への原爆投下に至る意思決定に、チャーチルが深く関わっていたことを裏付ける資料として注目されそうだ。 同館所蔵ファイル(CAB126/146)によると、原爆開発の「マンハッタン計画」責任者、グローブス米陸軍少将が45年6月初め、英国側代表のウィルソン陸軍元帥を通じて英政府に日本に対する原爆使用を許可するよう求めた。 打診は、米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないなどと定
1993年9月のメージャー首相(当時)来日を前に、英政府が日本の皇室メンバーの人柄を首相に報告した内容が、英公文書館が24日に公開した文書で明らかになった。天皇陛下について「やや控えめな外見の裏に鋭い知性があり、私生活では考古学や歴史などの話題に生き生きとされる」とするなど、好意的な受け止めがつづられている。 天皇陛下については「とりわけ英王室メンバーを歓迎し、もてなすことに心を砕いてきた」とも説明した。皇后さまは「知的で社交的、非常に魅力的で、英語がとても上手。穏やかな外見にもかかわらず皇室内で相当の改革を進めたと評価されている」とした。母乳育児や、人々との間に距離を作る警備を緩めようとしてきたことにも触れた。 皇太子さまについては、日英の交流行事に定期的に出席していることに言及し「厳しい宮廷の儀礼から少し抜け出せる機会として楽しみ、できるだけ打ち解け、親しみやすい存在になろうと最大限の
外務省は二十日、外交文書二十五冊を一般公開した。一九八六年四月にソ連(現ウクライナ)で起きたチェルノブイリ原発事故を巡り、翌五月の日ソ外相会談でシェワルナゼ外相が「平和な状況の下においても、核エネルギーは制御し得なくなった」と発言していたことが明らかになった。事故直後に東京で開催された先進国首脳会議(サミット)に向け、日本政府が国内の原発政策に影響するのを避けようと、推進の姿勢を鮮明にすべく動いていたことを示す記録もあった。 (大杉はるか) 四月二十六日の事故発生から約一カ月後の五月三十日、ソ連で行われた日ソ外相会談で、シェワルナゼ氏は安倍晋太郎外相に「チェルノブイリは全人類にとっての強い警告であると思う。事故は悲劇だった。人も死んだし、被ばくして病気になった人も出た。ただし破局は防止することができ、今のところ状況は安定している」と説明。こうしたやりとりが記された公文書が開示されたのは初め
チェルノブイリ事故、情報隠蔽にG7苦慮=サミット、対ソ批判控える-外交文書公開 史上最悪の爆発事故を起こした旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所。中央の、煙突が立っているのが爆発を起こした4号炉建屋で、手前側が大きく破壊されている=1986年10月1日(AFP=時事) 東西冷戦下の1986年4月26日にソ連で起きたチェルノブイリ原発事故をめぐり、先進7カ国(G7)がソ連政府の情報隠蔽(いんぺい)に苦慮していた様子が、20日公開の外交文書で明らかになった。直後の東京サミットでは、情報提供を促すため、あえて厳しい対ソ批判を避けた。また、日本の鹿取泰衛駐ソ大使は、ソ連への配慮などを理由に、食品の放射能検査の結果公表に反対意見を唱えていた。(国名、肩書は当時) 史上最悪レベルの放射能汚染をもたらした同事故では、ソ連から正確な情報が出てこないことに各国は業を煮やしていた。外務省は駐日ソ
ダレス米長官が改憲支持=「相互防衛に必要」-船田氏らに56年伝達・外交文書公開 ダレス米国務長官が1956年3月に来日した際、鳩山一郎政権要人との会談で、日本の憲法改正を支持する考えを伝えていたことが、20日公開の外交文書で分かった。集団的自衛権の行使容認を念頭に「相互防衛」に言及。同時に、軍国主義復活につながらないようくぎを刺すことも忘れなかった。(肩書、国名は当時) ダレス氏は56年3月18日、東京の米国大使館で重光葵外相、船田中防衛庁長官、河野一郎農林相、岸信介自民党幹事長らと会談。同党は55年11月の「保守合同」で発足したばかりで、改憲を党是に据えた。 東西冷戦の緊張が続く中、ダレス氏はソ連の動向などに触れた上で、「日本が世界の進化の責任を再び西太平洋方面で担うことを希望する」と発言。これを受け、船田氏が「しからば憲法改正が重要だ」と訴えた。 ダレス氏は「憲法上、直ちに相互防衛(の
1985年1月、イスラエルのペレス首相の「密使」が日本を訪れ、中曽根康弘首相と会談し、中東和平実現に向けた関与を働き掛けていた。20日公開の外交文書で確かめられた。石油購入などを通じ、イスラエルと対立するアラブ諸国との関係が深かった日本は、内政問題を抱えるペレス氏との個人的関係を軸に外交を展開するのはリスクが高いと判断。アラブ側の反発も懸念し、肩入れしない考えを伝えた。 今月上旬、エルサレムをイスラエルの首都に認定したトランプ米政権にアラブ側が強く反発する中、日本政府は懸念を表明しつつ米国への配慮も見せた。当時も今も中東外交でのバランス維持に腐心する日本の姿が浮かぶ。ペレス氏は93年のパレスチナ暫定自治宣言(オスロ合意)の立役者の一人で94年にノーベル平和賞を受賞した。 「密使」は、イスラエル系米国人の時事漫画家でジャーナリストのラナン・ルリー氏。対アラブ強硬派として知られたイスラエルのシ
昭和58年11月に中国の胡耀邦共産党総書記が来日した際、中曽根康弘首相に対し、「日本が適当に自衛力を増強させることにつき中国は反対しない」と述べていたことが、12日公開の外交文書で分かった。胡氏はまた、日中両国が戦争を行うことはないとの見通しも示したが、日中の平和が続く期間を21世紀初めまでに区切っていた。 胡氏が日本の防衛力整備に理解を示したのは、当時の中ソ対立を背景に日米両国との関係強化を目指す中国政府の方針に基づくもの。59年3月に中曽根氏が訪中した際には、趙紫陽首相(後の総書記)も「中曽根内閣の政策を軍国主義政策とは考えていない」と述べていた。 中曽根氏との会談で、胡氏は「いかに日本が自衛力を拡大させようと、中国と戦うことにはならない」とも述べたが、日中間の平和が続くのは「今世紀末から21世紀初めにかけては」と前置きした。改革開放路線を進めていた中国指導部が、経済成長に伴う軍拡によ
外務省は二十日、外交文書二十五冊を一般公開した。中曽根康弘首相が一九八六年十一月に訪中して中国共産党の胡耀邦(こようほう)総書記と会談した際、中国との国交樹立を希望する韓国の意向を伝えていたことが明らかになった。橋渡し役を果たそうとすると同時に、日本と国交がない北朝鮮との貿易に向けても「用意がある」と表明し協力を求め、中韓と日朝の同時並行的な関係改善を提起した。胡氏は、いずれの提案にも、希望に沿えないとの考えを示した。 一連のやりとりからは首脳間の信頼関係を土台に、日本が朝鮮半島の平和実現に向け、独自外交を展開しようとした軌跡が浮かび上がる。一部の事実は共同通信が当時「中韓橋渡しは不首尾に」などと報じていた。 日中首脳会談は八六年十一月八日、北京の人民大会堂で行われた。九日付極秘公電によると、中曽根氏は「韓国首脳から『中国との国交、それに至らぬとしても、交流を拡大するよう希望していると伝え
【ワシントン山崎健】外務省が1987年、広範囲にわたる米公文書の非公開を米政府に要請した際、国務省東アジア太平洋局日本担当として米政府内の協議に参加した元駐韓米大使のトマス・ハバード氏(73)が西日本新聞の取材に応じた。ハバード氏は日本からの非公開要請は他にもあったと指摘。民主主義の根幹をなす国民の「知る権利」を無視した外務省の隠蔽(いんぺい)体質が浮き彫りになった。 「日米の政治 成長に差」 国務省刊行の米外交史料集編さん史の共著者で、87年に在米日本大使館から同局に非公開の公式な申し入れがあったことを突き止めた米歴史学者のジョシュア・ボッツ氏(37)によると、要請を米政府の機密解除審査部門に伝えたのがハバード氏だった。 ハバード氏は「関係国を当惑させるような公文書は公開するべきではない、というのが当時の私が強く感じていたことで、それは今も変わらない」と説明。しかし、審査部門の歴
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く