ことし8月に広島市で開かれる平和記念式典に、ウクライナへの軍事侵攻を続けるロシアのプーチン大統領の招待が見送られたことについて、日本に駐在するロシアの大使は「恥ずべき措置だ」などと反発しました。 広島市は、8月6日の原爆の日に開かれる平和記念式典について、これまでと同様にロシアのプーチン大統領に招待状を送る予定でしたが、政府と協議した結果「ロシアのウクライナ侵攻への日本の姿勢について誤解を生む」などとして招待を見送ることを決めました。 これについてロシアのガルージン駐日大使は25日、大使館のツイッターに日本語で「重要行事である式典からロシアを排除する挙に出た」と投稿しました。 そして「この恥ずべき措置により、アメリカによる原爆投下の犠牲となった罪のない何万人という同胞の記憶に、日本の自称反核運動の指導者はあらためて背を向けた」などと反発しました。 また、通信アプリのテレグラムでもロシア語で
あのヒトラーが法廷に引っ張り出されたことがありました。1931年のベルリン、暴力と破壊でドイツ市民を恐怖におびえさせたナチス突撃隊が起こした殺人事件の証人として▼召喚したのは若き弁護士ハンス・リッテン。当時、ヒトラー率いるナチ党は国政選挙で躍進中でした。リッテンは彼らの無法や暴力行為が計画的に行われている証拠を示しながらヒトラーに詰め寄りました▼突撃隊はスポーツ隊だと言い張り、殺人という言葉が使われることを拒絶し、彼らは祖国を守ろうとしたと激高するヒトラー。しかし、翌日の新聞には「リッテン勝利」を伝える記事が躍ったといいます▼後の独裁者はこの時の屈辱を忘れず、自分を追い詰めた弁護士を決して許しませんでした。大規模な政治弾圧が始まるとリッテンも捕らえられ、監獄でひどい拷問や虐待にあい、命を奪われます▼いま劇団民藝が都内で公演する「闇にさらわれて」。息子を救うため命がけで奔走した母イルムガルト
Those German pacifists who call for a ceasefire would’ve called for the cease fire in 1943 to let Auschwitz fulfill… https://t.co/LfV2ZoAX88
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抑圧された生きづらい社会を生き抜いて活躍した女性たちの姿を見ると、勇気づけられるものだ。だが女性という「性別」だけにとらわれ、残した功績の裏側にある歴史を見落とすことは本末転倒なのではないか──男性優位の写真の分野で活躍した日本人女性、笹本恒子の作品が展示されたことを受け、歴史家が米紙「ワシントン・ポスト」に寄稿している。 2021年7月2日~10月3日にかけて、「カメラの背面に立つ新しい女性(The New Woman Behind the Camera)」と銘打った特別展がニューヨークのメトロポリタン美術館(MET)で開催された(現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに巡回中。会期は2022年1月30日まで)。これは、20世紀前半に活躍した重要な女性写真家の作品を紹介した写真展になる。 ニューオーリンズの黒人コミュニティで写真スタジオを開いて成功した女性写真家たちをはじめ、世界各地で
戦闘機との距離はわずか数十メートル。数人の乗客がカメラを向けると、警備員が慌てて近付き、腕でバツ印をつくって撮影を止めた。空港ビルにも以前はなかった撮影禁止のマークがあり、警備が厳しくなっていた。 ヤースヌイ空港が開業したのは2014年9月。開業式典には、ロシアのプーチン政権の実力者だった当時のイワノフ大統領府長官も駆けつけ、期待の高さをうかがわせていた。 それまで民間の航空路線があったブレベストニク空港(旧日本軍の天寧飛行場)は、ソ連時代にミグ戦闘機が常駐した戦略拠点だったが、濃霧による欠航が多かった。新空港は今年2月、軍民共用とする方針を発表。今後、軍事利用が増える可能性がある。 北方領土にはソ連末期、約1万人の地上軍が展開。戦車や対空ミサイルも配備されていたが、ソ連崩壊後は軍備の老朽化が進んだ。現在の駐留部隊は択捉島と国後島で計約3500人とみられるが、16年に新型地対艦ミサイルを配
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