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historyと売春に関するEreniのブックマーク (9)

  • 江戸時代の妾「囲者」というお仕事 第1回~妾は男の甲斐性~ | 歴史人

    囲者とは、妾のこと。たんに「囲い」や、「てかけ」ともいう。 図1は、画中に「志賀山、囲われている所」とある。 吉原の花魁(おいらん)志賀山が年季の途中、富裕な商人に身請けされ、囲者となって暮らしている様子である。 左の女中が言う。 「お茶を入れ、おまんまにいたしましょう」 「なんぞ、おいしい物はないかえ」 志賀山はを読みながら、のん気なものだった。 戯作『磯ぜせりの癖』(十返舎一九著、文化10年)の設定では、志賀山は女中ひとりと、下女ふたりの四人暮らしだった。 左の台所で仕事をしているのが下女のひとりであろう。 身請けに大金がかかったのは言うまでもないが、妾宅を維持していくのにもかなりの金がかかる。 旦那である商人は、まず戸建ての借家を借り、三人の奉公人を雇い、さらに月々の生活費も渡さねばならない。かなりの出費だった。 かつて、「妾は男の甲斐性」という言い方があった。逆から言えば、甲斐性

    江戸時代の妾「囲者」というお仕事 第1回~妾は男の甲斐性~ | 歴史人
  • 江戸時代の尼「比丘尼」というお仕事 第1回~人気があった比丘尼~ | 歴史人

    比丘尼は来、出家した女、つまり尼のことである。 図1に、比丘尼の姿が描かれている。 いっぽう、鎌倉・室町時代以降、尼の姿をして諸国を歩き、熊野神社の厄除けの護符である「牛王(ごおう)」売る女を、熊野比丘尼(くまのびくに)といった。 その後、一種の歌を歌って米や銭を乞うようになり、こうした尼を歌比丘尼(うたびくに)と呼んだ。 熊野比丘尼や歌比丘尼が、江戸時代になると定住し、尼の姿で売春に従事するようになった。こうしたセックスワーカーが「比丘尼」である。 図2のふたり連れの女は「うたびくに」と記されているが、要するにセックスワーカーの比丘尼である。 『人倫訓蒙図彙』(元禄三年)は、歌比丘尼について―― もとは清浄の立て派にて熊野を信じて諸方に勧請しけるが、いつしか衣をりゃくし歯をみがき頭をしさいにつつみて、小哥を便りに色をうるなり。 ――と説明し、初めのうちは仏教の尼だったが、しだいに「色を

    江戸時代の尼「比丘尼」というお仕事 第1回~人気があった比丘尼~ | 歴史人
  • 茶屋女より劣り比丘尼よりは上位の「綿摘」とは? ~副業で売春をする女工たち | 歴史人

    綿摘(わたつみ)は、塗桶(ぬりおけ)という道具を使って綿をのばし、小袖の中入れ綿や綿帽子を作る仕事のこと。綿摘をする女も、綿摘と呼んだ。 図1で、左のふたりの女がしている作業が綿摘である。 この綿摘の女が、売春に従事していた。このことはほぼ常識になっていて、「綿摘」は「副業で売春をしている女」の同義語といってよかった。 近代の言い方をすれば、綿摘は女工であろう。副業で売春をしている女工を綿摘と呼んだことになろうか。 『守貞謾稿』(喜多川守貞著、幕末期)に、綿摘について―― 『武江年表』に曰く、宝永の頃までわたつみと云ひしも土妓(とぎ)にてありし、云々。綿摘の雇婦に矯けて売女せしなるべし。 とあり、綿摘がいたのは宝永(1704~11)のころまでだという。宝永は、五代将軍綱吉の末期から、六代将軍家宣の初期にかけてである。 「土妓」は、遊女ではないのに、こっそり売春をしている女の意味であろう。つ

  • 行商人を装った私娼「提重」 というお仕事【前編】 | 歴史人

    吉原は公許の遊廓である。そのため、吉原の遊女は公娼(こうしょう)だった。 江戸幕府は、吉原以外での売春、つまり私娼(ししょう)を禁じた。しかし、これはあくまで建前であり、実態は野放しに近かった。 江戸の各地には岡場所と呼ばれる私娼街がたくさんあり、公然と営業していた。町奉行所は見て見ぬふりをしていたといってよい。 ところが、天明七年(1787)に松平定信が老中に就任し、断行した政治改革――寛政の改革は、杓子定規そのものだった。私娼は厳禁され、江戸市中の岡場所はすべて取り払われた。 寛政年間の見聞を記した『梅翁随筆』(著者不詳)は、岡場所の取り払いは徹底していたと記したあと―― 夫より町に住て色を売る事あたはざるゆへ、女商人と成り提重へ菓子を入て、屋しきの部屋々々、辻番所に入来り情を商ふと成。此女を提重と異名して大に流行せしが…… と述べている。 来、提重(さげじゅう)は提重箱の略である。

  • 「切り裂きジャック」の被害者は売春婦ではなかった、通説に異議 歴史学者(The Telegraph) - Yahoo!ニュース

    【記者:Helena Horton】 英国の犯罪史上永遠のミステリーの一つは、連続殺人犯「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」の正体がいまだに判明していないことだ。だが、売春婦と考えられている被害者女性らについては、さらに知られていることが少ない。それは、世の中の多くの人が、犯人のジャックの方ばかりに気をとられてきたからだ。 切り裂きジャックによって1888年に殺害された女性たちの生涯に光を当てるため、歴史家のハリー・ルーベンホールド(Hallie Rubenhold)博士は、公文書をあたった。すると、カフェで働いていた女性や、英皇太子の友人と同居していた女性の存在が浮かび上がってきた。 博士は、被害者の女性たちの物語を消し去ったとして、当時の警察官や研究者らを「性差別主義者」だと非難する。 切り裂きジャックの被害者女性らに関する包括的な歴史について執筆しているルーベンホー

    「切り裂きジャック」の被害者は売春婦ではなかった、通説に異議 歴史学者(The Telegraph) - Yahoo!ニュース
    Ereni
    Ereni 2018/09/23
    英国は特に、「売春婦」というと見苦しく騒ぎ出す印象があるなあ http://d.hatena.ne.jp/Ereni/20121005/p1https://www.telegraph.co.uk/news/2018/09/15/jack-rippers-victims-not-prostitutes/
  • 遊郭あった吉原、街全景の写真発見 全焼前の明治に撮影:朝日新聞デジタル

    江戸最大の遊郭があった吉原(東京都台東区)の全景を収めた1枚の写真がみつかった。明治時代半ばごろに撮影されたとみられ、専門家は、1911(明治44)年に全焼する前の吉原の街の全貌(ぜんぼう)をとらえた貴重な写真として注目する。 縦10・2センチ、横14・6センチ。絵はがきの前身としてつくられた鶏卵紙を使った写真だ。今年6月、インターネットのオークションに出品されていたのを、都内在住の収集家、浅田正春さんが入手した。 台紙の裏面には、「東都吉原」「浅草公園地早取写真師」「江崎礼二製」などと記されていた。1883年に乾板写真の撮影に成功し「早撮りの江崎」と言われた著名な写真師の江崎礼二が、浅草寺の近くに1890(明治23)年に開業した12階建ての凌雲閣(りょううんかく)の展望台から撮影したとみられる。 写真の手前には、明治維新まで羽後荘藩主だった六郷家の下屋敷や蓮田、田畑がみられ、その奥に吉

    遊郭あった吉原、街全景の写真発見 全焼前の明治に撮影:朝日新聞デジタル
    Ereni
    Ereni 2018/07/27
    〜「江崎礼二製」などと記されていた。1883年に乾板写真の撮影に成功し「早撮りの江崎」と言われた著名な写真師の江崎礼二が、浅草寺の近くに1890(明治23)年に開業した12階建ての凌雲閣の展望台から撮影したとみられる
  • 横山やすし-昭和最後の芸人の幼少期を訪ねる【昭和考古学】 - 昭和考古学とブログエッセイの旅

    昭和最後の芸人の死 平成8年(1996)1月の大阪摂津市。ある男が、自宅で短くも太く濃い波乱の人生に幕を閉じました。彼は死の前夜酒を飲み、長年の深酒に肝臓が悲鳴を上げたアルコール性肝硬変でした。 「あんた、これ以上飲んだら死ぬで」 と医者に通告されていた中の深酒。傍目から見ると自殺そのものでした。 その男の名は横山やすし。名は木村雄二。非常にクセのあった、しかしどこか愛された昭和最後の、そして空前絶後の破滅型芸人でした。 昭和に生き、戦後昭和に彗星の如くあらわれ、そのピークを笑いで支え、そして昭和の終わりと共に消えていった芸人、横山やすし。 「昭和考古学」は今まで、建物などの「モノ」を中心にしてきましたが、彼の人生もまた、「昭和考古学」として取り上げるべき材料としてうってつけでしょう。 あの時、あなたはヒーローだった 昭和60年代以降生まれの人には、西川きよしを知っていても、横山やすしと

    横山やすし-昭和最後の芸人の幼少期を訪ねる【昭和考古学】 - 昭和考古学とブログエッセイの旅
    Ereni
    Ereni 2018/07/06
    久米宏って、やっさん、黒柳徹子、平野レミと組んでた訳だよな。そう考えるととんでもなく凄いな
  • 『ルンペン節』から見える昭和のニッポン - 昭和考古学とブログエッセイの旅

    タイトルからいきなり「ルンペン」ときましたが、ルンペンって言葉を知っているでしょうか。ルンペンとはドイツ語でボロ布という意味で、それが日に入り、転じて「浮浪者」「失業者」という意味になりました。破れた帽子をかぶり、穴が開いた服を着ている人、それがルンペンの標準イメージです。 元々は、朝日新聞に連載されていた小説『街の浮浪者』の”浮浪者”に、作者の下村千秋が”ルンペン”とルビを振ったところ、それが流行語になったのが始まりだそうです。 だいたい昭和ひと桁の頃に流行した用語で、 (「社会ユーモア・モダン語辞典」(1932年)より) 当時の新語・流行語辞典にも掲載されています。 平成生まれの人はなんだそりゃ!?でしょうが、私のような40代では、ほのかなノスタルジーを誘うような語句でもあります。小学生の頃、大阪のあいりん地区にたむろしていた身なりがよろしくない日雇労働者を、「ルンペン」と指さしてい

    『ルンペン節』から見える昭和のニッポン - 昭和考古学とブログエッセイの旅
    Ereni
    Ereni 2018/07/06
    『昭和初期から戦後すぐの上野公園は男娼のメッカでしたが、「彼女」らが総本山と崇めたのが釜ヶ崎。なぜならば、オカマ=女装した男娼という定義なら、おそらく釜ヶ崎の男娼が間違いなく日本初だったから』
  • 韓国が教科書に載せないベトナム戦争時の虐殺と売春ビジネス (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

    朴槿恵大統領をはじめ韓国の国家ぐるみの「反日アピール」が止まらない。慰安婦問題では、「旧日軍が20万人の少女を強制連行して性奴隷にした」という史実と異なる嘘の主張を続け、謝罪と賠償を求めている。さらに特筆すべきは、韓国政府がベトナム戦争(1960〜1975年)に参戦した韓国軍や現地に渡った民間韓国人の所業を歴史から消し去ろうとしていることだ。 ベトナムでは戦時中から韓国への憎悪が燃え盛っていた。3月12日に発売される『日人が知っておくべき嘘つき韓国の正体』(小学館)の中で、元朝日新聞サイゴン支局長の井川一久氏は、ベトナム戦争当時の様子をこう振り返っている。 「1972年にサイゴンに赴任した直後、私の車がベトナム人青年のオートバイと接触事故を起こし、100人近い群衆に取り囲まれるハプニングがありました。興奮した群衆は『ダイハン!(※ベトナム語で「大韓」の意)』と口々に叫びながら、憎悪

    Ereni
    Ereni 2014/03/03
    「一時はベトナムでの韓国軍の蛮行を断罪する機運が高まったが、退役軍人会などの圧力で尻すぼみになってしまった。最初にこの問題をリポートした具秀ジョン女史も、度重なる迫害を受け海外生活を余儀なく」慰安婦
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