横路孝弘氏は、昭和16年に北海道札幌市で生まれ、昭和44年に衆議院議員に初当選。5期目に北海道知事選挙へ立候補のため衆議院議員を辞職し、北海道知事を3期12年務めました。知事退任後に再び衆議院議員に当選し、知事就任以前とあわせて、12期34年余にわたり衆議院議員を務め、平成17年9月から平成21年7月まで衆議院副議長、平成21年9月から平成24年11月まで衆議院議長を歴任しました。 令和2年から令和4年までの間に記録されたインタビューで、横路氏のこれまでの人生の歩みを辿り、国会での質疑の数々や議員・知事としての政治決断、そして衆議院議長・副議長として担われた重責や当時の想い等を振り返ります。 インタビュー実施期間 令和2年2月から令和4年11月まで(全28回) 口述記録 全体版 上巻一括ダウンロード(PDF:7.14MB) 下巻一括ダウンロード(PDF:7.39MB) 分割版 【上巻】 表
唐突だが、私が歴史上最も尊敬する人物の一人、フィリピン独立運動の志士、ホセ・リサールについて、30年ほど前に公表する当てもなしに書いた文章が古いPCから出てきたので、成仏させるためここに転載する。 (以下転載はじめ) ホセ・リサール(Jose Rizal) 1861-1896 19世紀末のフィリピンの独立運動家ホセ・リサールについては、日本ではほとんど知られていない。彼はスペイン政府によって1896年、36歳の若さで公開処刑された。そのことでフィリピン民衆の心の中ではホセ・リサールとキリストのイメージが重ね合わせられることとなり、彼は救国の英雄としてフィリピン人の愛国心を体現する人物となった。 フィリピン革命の志士。ルソン島のラグーナ県のカランバの中産階級の家に生まれた。 少年時代カビテ事件(1872年)を経験し、同胞の実情に憂愁を感じた。マニラのアテネオ・ムニシパルで、ジェズイット教団僧
昨年度の授業では幸徳秋水のあとに鶴見俊輔を読んだが、そこには石川三四郎をあいだに挟めばアナキズムの流れでつながるとの見立てがあった。しかし、幸徳秋水のあとに大逆事件の系譜として朴烈事件を取りあげ、金子文子を経由しても鶴見俊輔にたどりつけるという視点は去年の自分にはなかったものである。それに気づいたのは、今年1月に「GYAO」で無料配信されていた映画「金子文子と朴烈」(韓国では2017年/日本では2019年に一般公開)を観たことによる。 1923年9月1日に関東大震災が発生すると、「朝鮮人暴動」の流言が飛び交い、武装した自警団や警官によって多くの朝鮮人が虐殺された。9月16日には、憲兵大尉の甘粕正彦らがアナキストの大杉栄と伊藤野枝そして彼らの甥で若干6歳だった橘宗一を殺害している。朴烈は9月3日に保護検束の名目で、1922年から同棲生活をしていた金子文子とともに逮捕された。 朴烈(1902年
【連載】『歴史とは何か』の人びと(1) E・H・カー(一八九二─一九八二)との遭遇は前触れなしであった。一九八〇年の夏の終わりに始まったわたしのケインブリッジ留学生活だが、所属はチャーチル学寮で、その家族寮に住んでいた。チャーチルにもロイ・ポータ、マーク・ゴールディ、ポール・ギンズバーグといった才気走った若手歴史家はいたのだが、わたしの研究指導教員(スーパーヴァイザ)、ボイド・ヒルトンはトリニティ学寮のフェローなので、研究面談はそちらで行われた。歴史学部における講義とは別立てである。ボイドは当時まだ三五歳、博士論文をもとに公刊されたモノグラフ『穀物・カネ・商業』で知られていた。一九世紀イギリスの政治社会史という点では、カーの『歴史とは何か 新版』(岩波書店、二〇二二)にも出てくるG・キトスン=クラークの後任という役回りだったのかもしれない 大学都市ケインブリッジの緑ゆたかな郊外を自転車でゆ
○○殿 ご無沙汰しております。 「まだ足りない」として貴殿のブログに書き込んでどれぐらい経つでしょうか。 私は「喉から手が出るほど銃が欲しい」と書きましたが あの時からこれまで、銃の入手に費やして参りました。 その様はまるで生活の全てを偽救世主のために投げ打つ統一教会員、 方向は真逆でも、よく似たものでもありました。 私と統一教会の因縁は約30年前に遡ります。 母の入信から億を超える金銭の浪費、家庭崩壊、破産... この経過とともに私の10代は過ぎ去りました。 その間の経験は私の一生を歪ませ続けたと言って過言ではありません。 個人が自分の人格と人生を形作っていくその過程、 私にとってそれは、 親が子を、家族を、何とも思わない故に吐ける嘘、 止める術のない確信に満ちた悪行、 故に終わる事のない衝突、その先にある破壊。 世界中の金と女は本来全て自分のものだと疑わず、 その現実化に手段も結果も問
佐藤優氏がプーチンのシンパになったことは間違いないようだ。 佐藤氏の初期の著作にサーシャという人物が出てくる。佐藤氏のモスクワ大学での親友で、ラトビア出身のロシア人、ラトビアの独立のために活動するサーシャは読者に強い印象を残す。 だが、その後どうなったかは知られていなかった。
森喜朗は首相までやりながら、「どんな実績があるか」ではなく「どんな失言をしてきたか」で語られる、たいへん稀有な政治家である。舌禍事件のたびに、過去の発言を振り返ることで森喜朗という人物像が再確認されている。それでもなお、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長になり、その座に居座り続けることができているのは、なぜだろうか。 「全文は読んだらもっとひどかった」 「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」「(組織委員会にも女性はいるが)みんなわきまえておられる」――日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会で、森喜朗が40分におよんだスピーチのなかでそのように述べると、会場では出席者から「笑いが起きた」と報じられた。 これに対してSNSでは、女性蔑視、自らオリンピックを中止に追い込もうとしている、どうせ発言の切り取りだろうと思ったが全文を読んだらもっとひどかった
田中正造の評伝。 田中正造は、幕末に栃木県の小中村(現 栃木県佐野市)の百姓の家に生まれる。百姓といっても名主を務めるような家で、父の跡を継いで名主になり、正造はこの小さな村の名主を12年務めた。 彼は小中村の「政治」に責任を負って、藩レベルの政治とは異質のまとめ役をこなした。それは、自治的な慣行や寄合における合意を尊重する、ボトムアップ式のものだった。彼は名主ではあったが身分意識は薄く、村人の代表として領主との対立を辞さず、領内7ヶ村の農民の抵抗運動を組織して、暗君(失政の領主)を退陣させる実績を残した。そのために正造は投獄されたが、これが、権力に決して屈しない、正造の戦いの始まりだった。 正造は、明治11年に政治に一身を捧げようと決心する。きっかけは、土地の投機に成功して3千円という大金を手に入れたことだった。この金は正造に「公共のために尽くす自由」を与えた。正造は、なんと35年間の予
日本近代史において瞠目すべき女性は誰になるだろうか, 無論一人ではあり得ない。圧制への反抗というなら、管野 すが子、金子文子、伊藤野枝は代表的となろうが、度肝を 貫く壮絶さなら金子文子だろう。ここでは管野すが子、で「 すがこ」をどう表記かは問題だが、全集では「管野須賀子」 、多用されるのは「スガ子」、まら「スガ」、私は「すが子」を 選びたい。 管野すが子の獄中手記「死出の道艸」は現在全編の掲載 は「管野須賀子全集」の第二巻と『明治文学全集96明治記 録文学集』、あまり長文でもないが、全文掲載は少ないもの である。『全集』では28ページである。 すが子は獄中からの手紙で「日記」、「感想録」のようなも のを書いているとのんべて居るが、それは処刑後、所在は 全く不明であった、発見はやはり「大逆事件の鬼」神崎清氏 である。 神崎清氏の記述では以下のとおり 古い天皇制絶対主義国家が崩壊し、大逆事件の
『インパール作戦後の牟田口廉也について』本文 あとがき インパール作戦については高木俊朗の「インパール」5部作を始め多くの書籍が出ている。しかし中心人物の一人である牟田口廉也についての伝記、評伝は児嶋襄の『指揮官』や雑誌に書かれたインパール作戦等を中心とした小伝があるのみで、生涯を通して書かれたものは昨年出版された広中一成の『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたか』までなかった。ちなみにインパール作戦で激しく対立した佐藤幸徳の評伝は『抗命の軍将 嗚呼、インパール・佐藤中将の悲劇』が平成7年に出ている。 牟田口の評伝がようやく出たか!という気持ちと戦後に関しては他の書籍同様あっさり書かれており、インパールの敗戦後どう過ごしていたのだろうという疑問が残った。2017年に放送されたNHKスペシャルを書籍化した『戦慄の記録 インパール』(岩波書店)には取材中、放送後の牟田口遺族とのやり取り
「人生は任務なり。人生を全うするということは任務を全うすることだ」 これはインパール作戦の後、予備役を経て昭和20年1月に予科士官学校の校長になったときの牟田口廉也中将の訓示である。なお、ビルマの第十五軍司令官時代にも同様の訓示をしている。 ※ 河邊正三と牟田口廉也については役職・階級などが変わった時、引用箇所等を除いて原則「河邊」「牟田口」で統一する。他の人物は階級や役職等をつける。戦後の記述についても「元大将」「元参謀」などとは表記せず「大将」「参謀」などと表記する。 ※ [ ]内は補足するために必要に応じて作者が加えた。 インパール作戦の失敗と河邊・牟田口の更迭 3月に開始したインパール作戦は、4月6日にインパール北方の要衝コヒマを占領したものの行き詰まっていた。 秦彦三郎参謀次長一行がビルマへ視察に来ていた昭和19年5月2日、秦次長から「いまの状態ではインパール作戦は中止した方がよ
先回の連載を読んでくれた方から、素雲と文子はその後どうなるのですか? と質問をいただいた。残念なことに、どうにもならないのである。文子は1926年に23歳の若さで死に、素雲は73歳まで生きて1981年に没したが、二人が接触を持ったことは一度もなかったし、長生きした素雲が文子について何か書いたこともない。 むしろ、一切の接点なく見える二人が、同じ上野で新聞を売っていたということに、私は興味を持ったのだった。それが上野という場所の面白さでもあると思ったからだ。 新潟出身の私にとっては、東京はいつも上野から始まった。だから子どものころは、上野が東京の中心だと信じていた。高校生のころ、当時流行っていた作家・森村桂の『違っているかしら』という小説を読んだら、就職活動がうまくいかない女子大生二人があてもなく山手線に乗りながらおしゃべりし、「上野などという物騒なところで降りる」と描写されたシーンがあり、
明けましておめでとうございます。 皆様のますますのご多幸をお祈りいたします。 平成最後の正月を迎えるにあたり、霞関会事務局から新年号の「霞関会会報」に何か書いてほしいと依頼を受けましたので、秘書官としてお仕えした小渕恵三外務大臣に関するエピソードを中心に思い出すままに書くことにしました。 小渕先生といえば「平成」と墨書きされた額を掲げながら、新元号を官房長官として発表した時の写真があまりにも有名です。政治家として謂わば「全国デビュー」を果たした瞬間とも言える極めて重要な歴史の大きな節目に居合わせた訳です。 1.大臣秘書官の拝命 その小渕先生が第二次橋本改造内閣の外務大臣として入閣されたのは、平成9年(1997年)9月11日のことでした。そして、その前日に突然、堂道総務課長から私に電話があり「海外出張中の小松人事課長に代わり内示する。大臣秘書官を発令する。」と伝えられました。その時、私は経済
◆ 「ニューアカ」あれは偽物です、完璧な ――西尾さんは都立小石川高校を卒業後、1954年に東京大学に入学。文学部ドイツ文学科を卒業後、大学院修士課程を修了してドイツに留学されました。現在に続く論壇でのお仕事をされるようになったのは、帰国後のことになりますか? 西尾 いえ、そうじゃありません。私は29歳のとき、雑誌『自由』の懸賞論文に「私の『戦後』観」(1965年)を応募して「自由新人賞」をもらいました。それからドイツに留学したのですが、『自由』の編集長に留学体験を連載してみないかとお誘いを受けた。それが『ヨーロッパ像の転換』(1969年)として新潮選書にまとまり、同時に一気に書き上げた『ヨーロッパの個人主義』(同年、講談社現代新書。現在PHP新書『個人主義とは何か』に改版されている)も刊行されました。 ――まさに保守言論人としてそこからスタートをされるわけですね。 西尾 ちょっと待ってく
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く