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thinkingとpublicationに関するjune29のブックマーク (4)

  • 『新潮45』の休刊に失望した

    新潮社が『新潮45』を休刊することを発表した。 私はこの判断に心から落胆し、新潮社という出版社そのものに心から失望した。 おそらくもう回復不可能な失望だ。 まず断っておくが、私は杉田水脈氏の記事(論文とは決して呼ばない)を一切支持しない。 一切、完全に、ただの一行たりともだ。 続く号で発表された杉田氏の擁護記事も、仮に部分的に事実があるとしても一切の論旨に賛同しない。 だが、私は『新潮45』が休刊したことについても深い憤りを覚えている。 杉田氏の記事ならびに擁護記事に批判が集まったあと、新潮社代表取締役の佐藤隆信氏は以下のようなリリースを発表した。 https://www.shinchosha.co.jp/sp/news/20180921.html 弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。…… それら

    『新潮45』の休刊に失望した
  • ■ - golden-luckyの日記

    マッハ新書、β版で電子版を先行発売して紙を売り出すという、ここ10年来の英語圏における一部技術書の動向が、日語圏では技術書界に先立って新書という形で、トップダウンかつボトムアップに再発明されたものという感じがする(ポジティブな感想です)。 ここで、トップダウン的というのは、著者からという意味。ボトムアップ的というのは、読者からという意味。 日の出版をめぐる業界構造は、著者と読者が不在で、両者の間を出版社、取次、書店からなる三角形が取り結んでいる。 読者が支払った書籍の対価は、その三角形の中でぐるっと回遊し、その一部が著者に還元される。 もちろん、形式的なお金の流れは読者→書店→取次→出版社→著者なんだけど、この三角形の中でお金を回遊させることで、「コンテンツという水物をパッケージングして全国に配信する」という難事業に伴ういろんなリスクを回避してきたわけだ。 マッハ新書では、この三角形を

    ■ - golden-luckyの日記
    june29
    june29 2018/05/08
    マッハ新書の考察だ。
  • Markdown原稿をGitHubで管理して本にする仕組みが出版社で導入されないわけ

    これ、FAQっぽいんで、ちょっと私見を書いておこうと思います。 とくに技術書に関しては、Markdownで原稿を書きたいとか、修正はPull Requestでもらえると楽とか、そういう便利な世界を知っている人たちが執筆者なので、 「MS Wordで書いてもらった原稿を、こちらでDTPの担当者に組版してもらいます。修正は紙に赤字か、PDFをメールで送るので、そこにコメントを入れてください」という古き良き時代の出版社のやり方を目にすると、 「出版社って遅れてるよなー」という感想を抱かれることが多いのだと思います。 その結果、「自分たちはITのプロとして出版のためのプラットフォームを作れるだろうから、それを使ってもらえないものか」という方向の考え方に至るのはよくわかります。 しかし、これには、二つの面から「ちょっと認識が違うから待って」と言いたい。 まず「認識が違う」と思うのは、プレインオールド

    june29
    june29 2016/06/08
    おもしろい。汎用ページジェネレータとオーダーメイドのキャンペーンページの関係っぽい。
  • コードを理解できない人間がソフトウエアの記事を書く怖さ

    数年前、他社のプログラミング雑誌を書店で立ち読みしていたとき、その雑誌の編集後記を見て違和感を覚えました。「私はコードは全く理解できないが、間違っていそうな個所は編集者の勘でわかる」と書いてあったのです。「それはおかしいんじゃないか」と思いました。 好意的に解釈すれば、自分にはできないプログラミングができる執筆者に対する尊敬の念が、このような文章になったのかもしれません。編集者としての感覚を誇りたい気持ちもあったのでしょう。たしかに、編集業務の経験が長ければ、「何かがおかしい」という勘で誤りを発見できることがたまにあります。しかし、技術的な誤りをすべて勘で見つけられるわけがありません。 掲載するコードの内容が正しいかどうかをチェックするのは、プログラミング雑誌の編集者にとって重要な仕事の一つです。意味がわからない箇所があれば筆者に確認するべきでしょう。コードがわからないのは恥じるべきことで

    コードを理解できない人間がソフトウエアの記事を書く怖さ
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