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韓国と古代に関するnagaichiのブックマーク (8)

  • [独自]韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見

    1500年余り前に日からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日特産の土器が相次いで確認されたためだ。 大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ポクジョンドン))から、古代日の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪(はにわ)」を初めて発見したと明らかにした。大韓文化財研究院は地中の文化遺産を発掘・調査する機関だ。 埴輪は5世紀前半の古代日の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。 城南市福井洞の百済土器窯関連遺跡の廃棄

    [独自]韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見
    nagaichi
    nagaichi 2024/03/08
    現在の日本人も近年の説では先住系縄文人・渡来系弥生人・渡来系古墳人の混血といわれており、列島型古墳を作る古墳人が半島に住んでいたところで驚くに値しない。現在の国境で古代の人々の移動を考えるのは無意味。
  • 日本との交流もあった謎多き王国群「加耶」 国立歴史民俗博物館で企画展 | おたくま経済新聞

    古代の朝鮮半島に存在し、日との交流もあった王国群「加耶」。謎が多く、古代日の国際関係にも大きく関わる加耶の考古遺物を展示する日韓国の国際企画展示が、2022年10月4日より千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で始まりました。開幕を前に報道内覧会が行われたので、一足早く見学してきました。 加耶は日列島における古墳時代の3世紀~6世紀ごろにかけ、かつて日史の教科書で「任那」とされていた朝鮮半島南部に存在した王国群の総称。今回は大韓民国国立中央博物館と日の国立歴史民俗博物館、九州国立博物館が協力し、大韓民国指定宝物を含む加耶の貴重な考古遺物を220点あまり展示します。 当初は2020年の夏に開催する予定でしたが、折悪しく新型コロナウイルス禍で延期になっていました。2年の時を経て、ようやく企画展示が実現したのです。 内覧会に先立ち、今回の展示プロジェクト代表を務める国立歴史民俗博物館の高

    日本との交流もあった謎多き王国群「加耶」 国立歴史民俗博物館で企画展 | おたくま経済新聞
  • 朝鮮半島最大の古代の墓、開けた直後に閉じた理由は

    [ノ・ヒョンソクの時事文化財] 長鼓峰古墳をめぐり考古学界で騒ぎに 日の古墳に似た構造や祭祀の跡をめぐり議論 「追加発掘後に一般公開」とし、再び埋める 墓の被葬者は百済の統制を受けた倭人? 日の右翼が任那日府説の根拠にすることを懸念 最近発掘調査された全羅南道海南郡北日面方山里の長鼓峰古墳内部の石室。遺体を置く部屋への入口の玄門が正面にみえ、平らな板石をいくつか置いた床と砕いた石を整然と積んだ石室の壁面が見える。1990年代までに2回盗掘され、内部の遺物は大部分が失われた//ハンギョレ新聞社 朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の初めについに開かれた。考古学者らは5~6世紀の日の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした。今年1月、国土最南端の海南(ヘナム)から聞こえた墓の発掘に続く覆土のニュースは、メディアには公開されなかったが、韓

    朝鮮半島最大の古代の墓、開けた直後に閉じた理由は
    nagaichi
    nagaichi 2021/03/26
    遺跡が埋め戻されるのは、だいたいは保存のためだし、珍しいケースではないのだが、妙な観測がその筋で流れてるなあ。国問わず中小の古墳は開発で破壊されるケースも少なくないので、それよりは余程マシかと思われ。
  • 新羅時代の王宮に人柱? 人骨2体発見、韓国では初:朝日新聞デジタル

    5世紀前後の韓国・新羅時代の王宮の基礎部分から人柱とみられる人骨2体が見つかった。韓国文化財庁が16日、発表した。同庁は、韓国で人柱を考古学的に発見した初めての事例としている。 人骨が見つかったのは、韓国南東部、慶尚北道慶州(キョンサンプクトキョンジュ)の月城(ウォルソン)史跡。5世紀前後、盛り土で造られた西側の城壁の基礎部分に、寄り添うように横たわっていた。仰向けの人骨は男性で、横向きの人骨の性別は確認中という。顔のあたりに樹皮が付着していた。 同庁によれば、人柱の習慣は、紀元前17~同11世紀ごろの中国で確認されていた。韓国では建物や堤防を造る際に人柱が供されたという言い伝えがあったが、実際に確認されたのは初めてという。 同庁関係者は人骨の状態につい…

    新羅時代の王宮に人柱? 人骨2体発見、韓国では初:朝日新聞デジタル
  • 仁川市桂陽山城から、一帯の地名を指す「主夫吐」銘文瓦が大量に出土 - 歴歩

    (財)民族文化遺産研究院は30日、去る5月18日以後、古代城郭の桂陽山城(계양산성)の北門場所と推定される一帯を対象に第4次桂陽山城学術発掘調査を行った結果, 「主夫吐」という銘文瓦(명문기와)100点余りを発掘したことを明らかにした。 「主夫吐」銘文瓦は去る2005年鮮文大考古研究所が実施した第2次桂陽山城発掘調査でも1,2点が確認されている。 これら銘文瓦はその製作技法や模様などの特徴から、製作時期は統一新羅時代あるいは高麗時代初期とみられる。 三国史記地理誌によれば「長堤郡」は来高句麗「主夫吐郡」で、新羅景徳王が変えた名前であり、三国史記編纂当時の高麗中期には「樹州」と言った。樹州は今の仁川桂陽区一帯である。 それでも統一新羅あるいは高麗初期まで桂陽区一帯を「主夫吐」という高句麗時代地名で相変らず呼んでいたのは地名の強い保守性からと理解される。 さらに、調査では長さ48㎝に達する統

    仁川市桂陽山城から、一帯の地名を指す「主夫吐」銘文瓦が大量に出土 - 歴歩
  • 韓は滅びぬ。 - gurenekoのメモ(終活中)

    しつこいと言われるかもしれないが、韓の正統に関して昨日考えた事を更に書き加えようと思う。 昨日は『史記』における「韓王信」という表記の不自然さやその後の中国史における「韓」号の忌避について語ったが(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090827/1251329434)、それ以前から韓は特別な国であった。 まず前々回(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090826/1251220178)の主題である項籍の旧勢力対策を振り返ってみる。 項籍は、腹心の范増が酷く怖れていた劉邦への牽制を自分の叔父の仇達に一任し、また主君である義帝の暗殺すら呉芮・共敖に任せている。これが単に無用心だった故なのか悪名を他人に押し付けようとする周到な計算の故だったのかは不明だが、ともかく旧勢力に対しては傍目には最重要級に見える人物が相手の場合でも非常

    韓は滅びぬ。 - gurenekoのメモ(終活中)
  • 韓を継ぐ者 - gurenekoのメモ(終活中)

    先日の日記(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090826/1251220178)で、転封を渋って新燕王に殺された旧燕王に触れた。この旧燕王は韓広という。彼が大人しく遼東に赴任して、西で失った領土を東方への拡大で埋め合わせようという前向きな思考をしていれば、箕氏朝鮮を継いだのは衛氏朝鮮ではなく韓氏朝鮮だったかもしれない。その場合、史実より早く朝鮮半島に「韓国」が誕生していた事になる。 それにしても、朝鮮半島南部の馬韓・辰韓・弁韓という国々の名称には、少々違和感がある。中国人が漢字を持たない異民族の国名を音写する際に、理由も無く中原の伝統的な国名を使用するとは思えない。「西の超大国」というイメージからローマ帝国を秦に擬えて「大秦国」と呼んだのと同じく、朝鮮半島南部の「韓」も音よりも概念に由来しているのではなかろうか? また紀元前2世紀以後の中国史において、「韓

    韓を継ぐ者 - gurenekoのメモ(終活中)
  • asahi.com(朝日新聞社):韓国の木簡に「ナニワ」さん 7世紀、日本人の名前か - 文化

    韓国・扶余(プヨ)で発見された木簡に日人とみられる名前が記されていることが、日韓の専門家の研究で明らかになった。扶余は朝鮮古代の百済の都で、木簡は7世紀のものらしい。「ナ尓波連公(なにわのむらじきみ)」(ナは那の異体字)と5文字あり、「難波」と記されるようになる大阪湾周辺に住んでいた有力者の可能性が高いとみられる。百済は飛鳥時代に日と緊密な関係にあったが、日人の名前が出土史料で確認されるのは初めて。  韓国国立扶余博物館が昨年、収蔵する木簡を整理。その際、「連」が身分を示す日古代の姓(かばね)であることに学芸員の李鎔賢(イ・ヨンヒョン)さんが気づき、日韓の専門家が解読した。  木簡は長さ20.9センチ、幅1.9センチ。10年ほど前の発掘調査で出土した。形から荷物を送る時の荷札と見られる。(渡辺延志)  鈴木靖民・国学院大教授(古代史)の話 「ナニワ」という日人の名前とみていいだろ

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